―じっとしていれば時刻が移る、友様後生だから何とかしてくんな」
後生だからと言われても、この際、米友には、得意の槍先をもって応援を試むるというわけにもなんにもゆくべきではなかったのだが、物は相談であって、偶然にも米友の窮した頭に閃《ひらめ》いたと見えたのは、
「先生、こうしちゃどうだ、こんな問題は、親方のお角さんに捌《さば》きをつけてもらっちゃどうだね」
「えらい!」
道庵がけたたましく叫び続けて言いました、
「そいつは、いいところへ気がついた、あの女なら、何とか捌きをつけてくれるかも知れねえ、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》だ」
「じゃあ先生、親方はこの一つ向うの宿にいるから、おいらからひとつ、頼みに行って来ようかな」
「頼む――」
道庵はまた米友を拝みました。
事はお芝居のようなものである。金持が道楽でやる研究心から起った模擬戦とは言い条、本来、芝居気たっぷりの催しなんだから、これは道庵が必死になって匙《さじ》を振り廻すよりは、餅屋は餅屋、興行師のお角さんならば何とかしてくれるかも知れない、全く友様もいいところへ気がついた、負うた子に浅瀬を教えられるとはこれだ。一も二もなく道庵が米友の提案に同意すると、米友は、そうでなくてもここで一応先生に挨拶して、そうして垂井のお角さんに復命しなければならない道筋なのですから、いざとばかり、また馬に乗って、群がる軍勢の中を垂井へ向けて乗り切ろうとするところへ、運よくお角さんの一行が乗りつけて来ました。
六十二
人を分けて、宿の一室で、道庵先生から一伍一什《いちぶしじゅう》を聞かされたお角さんが、いかにこの江戸で名代のお医者さんが、旅へ出ると小胆であり、無気力であるかということに、呆《あき》れてしまいました。
関ヶ原で東西の大模擬戦をやるなんていうことは、道楽にしたって胸が透かないことじゃない、江戸ッ子のやりそうなことじゃないか、その点はさすがに道庵先生だと賞《ほ》めてやりたいが、あとの締めくくりが全くなっていない。いや、興行師としてのお角さんから見れば、なっていないどころではない、なり過ぎているのだ、江戸ではピーピーの大関のくせに、旅で大金持にされてしまっているのは、ウソにも大当りじゃないか、おれはお金持だと言っても本当にしてくれない世の中なのに、先方から金持にしてしまってくれているのだから大出来です――その求めて許されない宣伝名を、儲《もう》けながら持扱っているこの大御所様の腰の弱いこと。
どうして、人というものは、集めようとしてもなかなか集まらないものを、集めようとしないで、この人数に押しかけられる道庵先生の人徳は大したものなのさ、その大した徳分を自分が持ちながら、自分で持扱っている、何という知恵のない先生だろう。
お角さんが、道庵先生の絶体絶命の態《てい》を見て笑止《しょうし》さに堪えられないでいるのは、さすがに商売柄です。道庵先生は、今、人の集まったことに押しつぶされ、空宣伝の利き過ぎたことに窒息しようとしているのだが、お角さんにとってはこれが商売であり、これがなければ生きて行かれない――どころではなく、多分の費用を用い、苦心を凝《こ》らして宣伝しても、人が来ない時は全く来ない、千両役者をかけてみても、来ないとなると首へ縄をつけて引張っても客は来ないものであるのに、こんなに押しかけて来ている客を、怖れて青くなっている道庵先生。
お角さんは気の毒でたまらない気になって、
「御安心なさいよ先生、匙《さじ》の方にかけては先生が御本職ですけれど、人の頭数を読んで生きて行くのがわたしの商売なんですから、こんなことの捌きは朝飯前の仕事です、万事、わたしが引受けました、先生は暫く大御所の席をおすべり下さい、これからわたしが臨時に女大御所となって、関東軍を引廻してお目にかけますから」
お角さんに笑いながらこう言われて、道庵先生は一も二もなく大御所の席を辷《すべ》り下り、
「頼む、餅屋は餅屋に限る――その代り腹が痛えとか、癪が起ったという時は、いつでもおいらの方へ言ってよこしな――」
ここで、こんな負惜みを言う道庵にとっての恐怖は、お角さんには興味でありました。やむなく、道庵のもてあました軍勢を引連れてお角さんが、ここ美濃の国、不破の郡、関ヶ原で采配《さいはい》を振ってみようという段取りにまでなりましたが、本来、お角さんは、自分が興行師であって役者でないことをよく知っている。そうしてこの際、采配を振るとは言うけれど、自分が金扇馬標《きんせんうまじるし》を押立てて本陣に馬を進めようというのではなく、表面はどこまでも道庵に芝居をさせて、自分は軍師としての采配を振る――という行き方は、お角さんらしいものでありました。
まもなく、前は関ヶ原、後ろは垂井の宿へ人を飛ば
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