、真剣には取合わないからいいが、旅へ出てはそうはゆかない。こういうデマのもとに、こういう人気を呼んでみると、この場に於て、信用に答えるだけの自腹を切るか、そうでなければ、こっそり夜逃げをしてしまわなければ乗切れるものではないということを、道庵が感じないわけにはゆきません。
 つまらねえ宣伝をしてしまったものだ、道庵はそれを心から悔いましたけれども、今になっては追いつきません。このまま夜逃げをしようにも、ところは名にし負う関ヶ原の要害ですから、逃げようとしたって逃げらるるものではないのです。
 道庵は全く青くなりました。刻々と詰め寄せて来る溢れ者の雲助と、見物がてら幾らかの日当にありつこうという近郷近在連とが、ひしひしと押しかけて来るのを見ると、もはや絶体絶命だという観念が湧かないでもありません。
 最初、法螺《ほら》を吹く時の考えでは、なあに、こうしてフザケておいて、いざという場合になれば盛蕎麦《もりそば》の一つも振舞って追いかえせば済む――と、このくらいにタカをくくっていたのが、こうなってくると、盛蕎麦の一つや二つでは追っつかない、とにかく相当のことをしなければ、暴動が起る!
 相当のことと言ったところで、仮りにも天下分け目の関ヶ原の模擬戦となれば、少々の費用で済むわけのものではない。道庵先生、多少名古屋に於て信者から草鞋銭《わらじせん》をせしめて来たとはいえ、千両箱を馬につけて来たわけではないし――嚢中《のうちゅう》おおよそお察しのきく程度のものであるのに、それをしもはたいてしまっては、これから先の旅をどうする、おめおめ名古屋くんだりへ引返して泣き言をいうことなんぞは、道庵先生の面目にかけてもできることではないのです。
 そこで、さすがの道庵が全く青くなって、なお刻々に増して来る雲助と見物を眼前に控えながら、為《な》さん術《すべ》を知らないのであります――といって、為さん術を知らないままですまし込んでいるわけにはなおゆかない。
「こりゃあ、実に弱った――どうしていいか、おれにゃわからねえ」
 可憐なる江戸仕込みの大御所は、ここで進退|谷《きわ》まって悲鳴を上げました。慶長五年の時に、もし小早川が裏切りをせず、毛利が、うしろ南宮山からきって下ろしたならば、本物の徳川大御所も、ちょうど目下の道庵先生と同じような窮境に立ったかも知れません。
「どうしていいか、おれにゃわからねえ、友様――ああ頼みきったる米友公――せめてあの男でもいてくれたら、何とか相談相手にはなろうものを……」
 国衰えて忠臣を思うの時です――この窮境に於て、道庵が頼みきったる郎党米友のことを思い出してその名を呼びましたけれども、それは、もう一駅先へ泊っている。

         六十一

 けれども、全く道庵の日頃の心がけがいいために、はからずも東西から援兵が、この危急の場へ送ってよこされました。
 その一方の援兵は、昨晩、関ヶ原へ先着してお銀様を見守ったところの米友が、早朝この野上の道庵大御所の本陣へ馬を乗りつけたことと――一方、東からはまだ到着はしていないのですが、お角さんの一行が垂井を出発したからほどなくこれへ見えることでしょう。
 前路より米友、後陣よりお角さんの一行が到着してみれば、道庵も、この苦境を乗り越すことができないまでも、苦衷を訴えることだけはできる。
 米友が到着したのを見ると、道庵が米友の前へ走り出して、思わず掌《て》を合わせました。
「友様、何とか知恵はねえか、お前の知恵で、何とかこの場を切り抜ける工夫はねえものか、後生《ごしょう》だから頼む」
と言って道庵は、事の始終を米友に向って手短かに物語って、泣きついてみたものです。
 暴力の場合には、米友に向って頼むということを言ったのは、道庵としても一再ではないけれど、知恵分別のために米友に泣きついたのは、これがはじめてでしょう。しかし、先生の頭で知恵分別に余ることを、米友の頭で解決しようとは無理です。結局、
「おいらも、どうしていいかわからねえ」
「弱っちまったよ、ほんとうに今日のことは冗談ごっちゃねえ、あれ外の騒ぎを聞きな、あの通りだよ……」
 耳をすますまでもなく、今や野上の上下から、関ヶ原駅頭を埋めるとも言いつべきほどの人だかりは、全く道庵一人を目にかけて群がり集まったもので、それが口々に、
「何しろ、お江戸、徳川将軍家のお膝元で指折りの有名な金持のお医者さんが、道楽半分になさることだから、金銭に糸目をつけねえ、何しろ江戸で有名なお金持の……」
 江戸で有名はかまわないにしても、金持はよけいなことだ、道庵や、蔵園三四郎にそんなに金があるか無いか、ここへ出て財布を振ってみろと血眼《ちまなこ》になってさわいだところで追っつかない。
「どうにもいけねえ、へたに出りゃ暴動が起って袋叩きだ―
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