今東西、あまり変りはないと同じく、女の誇りとしても、富であり、門地であり、賢明であることのすべてを束ねても、美人であるという自負には及ばないのであります。
ところが銀杏加藤の奥方に限って、名古屋城の内外を通じて第一等の美をうたわれる、それを衷心から誇りとはしていないで、自分の家が、加藤肥後守の最も正系に当るということの方が、幾倍も、幾倍もの自負であり、焦心でありました。
今、その系図を奪われてしまった。銀杏加藤の奥方にとって、生命を奪われるほどの負傷とならなければ幸いです。
岡崎藩の美少年は、この事情を聞いて全く慰めかねている。慰める唯一の手段としては、草の根を分けても、右の系図の一巻を探し出して、無事に夫人の手に戻してやることでなければならぬ、と覚悟を決めました。
ところが、その端緒に迷うことの最初は、右の犯人が殺されていることであって、犯人の手にも、懐ろにも、出なくとも我慢のできる金子の方は残ってあって、出なければならない系図の一巻は、消えてなくなっていることでした。
これは途中で振り落したか、そうでなければ追跡の急なために、あらぬ方へ抛《ほう》り出して逃げたか――その辺だとして、引きつづき手を廻し、なお夜が明けたら、関ヶ原の草の根を一本一本分けても探さにゃならぬことにしてある。
だが、もし仮りにこの下郎に共犯の者があって、それを持って逃げのびたとすれば一大事である。
銀杏加藤の奥方の口うらでは、どうも、それもやっぱり後者でありそうな推察がされてならぬ。
すなわち、名古屋城下の加藤家のうちには、たしかに自分の家に正系の存することを知っているものがある。門地に於て、俸禄に於て、銀杏加藤よりも上席にあるとしても、伝統と系図とを持ち出した日には、頭の上らぬ家柄が無いではない。もし、金と知行等で交換ができるものならば、何とでも内交渉を進めることを辞さない家が、いくらもありそうなことになっている。もし、そういう家柄のうちに、だいそれた心を抱くのがあって、所詮《しょせん》、威圧や買収を以てしては歯が立たないと覚った時、陰険な非常手段を以て、他の家の宝を覘《ねら》わないものが無いとも断言できない。
系図は必ずしも利息を生まないけれども、武家の時代にあっては、後光を失わないものになっている。
現に先年、飛ぶ鳥を落す幕府の老中田沼の当主が、佐野の系図とやらに望みをかけて、これがために斬られ、その家の没落を招いた――いかに高い地位におごっていながらも、系図に於ける貧弱の念が、武家の運命を左右するほどの事態を生ませる力はある。
岡崎藩の美少年は、いずれにしても容易ならぬ事件が出来《しゅったい》したものだなと思い、且つまた自分が附くことになっておりながら、いろいろの複雑した旅行ぶりのために、充分に目が届かなかったことを悔い、その償《つぐな》いの意味に於ても、夫人の心を回復させるだけのことをしてやらなければならないと覚悟しました。
六十
その翌朝になると、道庵先生が壁へ馬を乗りかけてしまって、どうにもこうにも抜き差しのならぬ事態に立至ってしまっているのは、心がらとは言いながら、不憫《ふびん》そのものであります。
つまり、昨夜来、江戸の金持のものずきなお医者さんが来て、この関ヶ原で、研究のために昔の慶長の合戦の模擬戦をして見せる、それは大がかりなもので、街道筋の雲助という雲助は残らず集め、それぞれ相当の学者も、故実家も集まり、合戦当時の地の理を実地戦争の形にして研究するのだ。
なにしろ、発起人が江戸で有名な金持のお医者さんで、それが道楽半分にすることだから、金銭に糸目をつけない、近頃での大きな催し物になる――
そうしてこの模擬戦に参加したものは、誰彼を問わず一人頭に百ずつくれる――それ行って見ろ、という評判が関ヶ原の東西南北に漏れなく伝わったものです。
ですから道庵先生の野上の宿の前は、夜の明けないうちから、仕事に溢《あぶ》れた雲助をはじめとして、近郷近在の見物人が真黒に寄ってたかって騒いでいる有様です。
まだ夜が明けきらないうちからこの有様では、日中のことが思いやられる。
そうして口々に、なにしろ江戸で有名なお金持のお医者さんが道楽半分になさることだ、金銭に糸目をおつけなさらねえ――という評判が道庵の耳に入ったので、いささか宿酔のさめかけていた道庵が、青くならざるを得ませんでした。
一本の匙《さじ》を振えば天下に恐るるものは無い道庵先生ではあるが、この江戸で有名な金持のお医者さん――という一種特別なるデマには、道庵先生が全く恐れをなさずにはおられません。
下谷の長者町あたりでこそ、有名は有名に相違ないが、誰も道庵先生を金持だと信じているものはないから、いかに大言を払っても、税務調査委員が
前へ
次へ
全110ページ中73ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング