違ない。それと同じことに、お銀様の方にも、自分から進んでこう言って誘惑をかけるだけに、米友を好いているところがあると見なければなりますまい。
しかし、もう心配するがものはない、好いたとか好かれたとか、少なくとも嫌ではないと言ったところでここではもう明らかに、意識がさめているはずなのに、この後ろ姿のやわらかな肉体を、ゴローの垢すりで加減しいしい生一本にこすっている米友が、再び実想と幻想との混乱世界に導かれて、死んだ者と生ける人との境界線を踏みはずす心持になってしまったのが、はっと我に帰りました。
「もうたくさん、もう有難う」
お銀様からそう言われて、米友は俄然として醒《さ》めたけれども、この肉体をこのまま引渡すには忍びない気持がする。
「もういいから、米友さん、お休み。そして、明日と限ったことはないが、もう少しここにいて関ヶ原の地理を調べたいから、お前さんも一緒にいて下さい、道庵さんや親方の方への行渡は決して心配ありません」
「うむ」
「さあ、お休み……」
五十九
一方、岡崎藩の美少年は、お銀様に支えられ、下人の斬られていた街道へ戻って見ると、もう、宿役の人が寄合って押しかけているところでありました。
そこで、これらの人たちと共に、改めて斬られている奴を検閲すると、これは長く清洲《きよす》の銀杏《ぎんなん》加藤家に仕えていた下郎に相違ないことが確かめられました。
今日まで忠実に勤めていたこの下郎が、今日一家が西国へ下ろうという途中で、何故にこんな心変りをやり出したか、ことに金子《きんす》だけならばとにかく、銀杏加藤家の系図そのものを盗み出したということが、疑念を一層濃くしているのであります。
それは、どうしても行きがけの駄賃として、この系図が手に触れたから引っさらって出たものか、特に日頃から、この系図に目をかけていたのか、それが最も解し兼ぬることでありました。銀杏加藤の奥方は、それを、どうしても後の意味にしか取ることができないでいるのも尤《もっと》もなことだと思われる。つまり、この下郎は、日頃からこの計画の下に、加藤の屋敷へ住み込んでいたのだ、屋敷に在る時は、それの所在がわからなかったが、旅へ持ち出すとなって当りがついたから、それで伊都丸の枕許からこれを持ち出したのだ。
そういう計画的のことであるからして、系図そのものが目的で、金子《かね》の方は行きがけの駄賃に過ぎない、こういうことを垂井の宿へ一同が引きあげた後、岡崎藩の美少年に向ってひそかに銀杏加藤の奥方が打洩らしつつ、何ともいえない憂鬱――というよりは絶望に近い色を現わすので、美少年も慰むる余地がないほどです。
それというのは、この系図こそ銀杏加藤の家の第一の誇りであって、この奥方は、この系図があるために、この系図を保護し、保護させるために、弟を引きとって清洲に隠れていたと見るのが本当でしょう。
以前にも言った通り――この系図こそ加藤肥後守清正以来の最も正しいものであって、今日でも加藤と名乗る家は少ない数ではなし、また現に名古屋に於ても、自分の家より俸禄の高い地位の上な加藤家はいくらもあるが、自分の家より系図の正しい加藤というものはない。
そうして、朝な夕な名古屋の名城を見るごとに、この城こそ我が家の先祖肥後守清正が、一代の心血を注いで築き上げたもの、世が世でありさえすれば、この城の主は、徳川でなくて加藤でなければならぬ、加藤なれば、わが銀杏加藤以上の加藤は今の世に無い!
銀杏加藤の奥方は、この点に於ては、名古屋城の内外で藩主をも憚《はばか》らぬ見識か、或いは虚栄かを捨てることができません。この見識か虚栄かのために、名古屋城下に住むことがいやになりました。
弟を擁して清洲に籠《こも》って、鬱積した心を慰めかねているというのは、頼み切った唯一の弟が、病身であるという事情ばかりではありません。
徳川の名古屋ではない、加藤の名古屋でなければならない、この気位が、物心覚えてから一日も、銀杏加藤の奥方の頭から離れたことはないのです。
けれども、城内城下ではそんなことを、奥方が自負しているほどに高価に買うものはなく、かえってそれよりも、この奥方が、名古屋の城内城下を通じて第一等の美人であって、また現在|姥桜《うばざくら》となっていても、未《いま》だ一の座を争うべきほどのものが現われて来ないという評価の方が、幾多の人を仰がしめ、悩ましめていたものです。世間に於て、婦人に要求する評価の最初であって、また最大で、また最後であるかのように見えるものは、いつの世にあっても、美であるかないかということであります。
女は美でなければならないのです。あらゆる他の欠陥が隠れていたにしたところで、それが美人でありさえすれば世間はそれを許したがることは、古
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