して、わたしのために背中を流して頂戴な!」
「あっ!」
 米友が、またも飛び上って地団駄を踏みました。
「わたしの背中を流して頂戴」
 この女王がこう言い出した以上は、その権力の及ぶ限りは誰でもその命令を拒《こば》み得るものはありません。
 不幸なる宇治山田の米友――或いは光栄ある宇治山田の米友――ここで、この暴女王と共に洗浴の施行を相つとめるか、そうでなければ、甘んじて三助の役目を任命せしめらるる運命をのがるるわけにはゆきますまい。

         五十八

 米友は、ここで、退引《のっぴき》ならずお銀様のために三助の役をつとめることになりました。
 退引ならずとは言いながら、米友としては心柄《こころがら》にあるまじき仕事と見なければなりますまい。
 職業とすれば、なにも必ずしも三助を貴み賤《いや》しむべきいわれはないようなものだが、職業でもありもしないくせに、人のために先方から三助をやることを命ぜられ、当方が甘んじてそれをやるとしたならば、友人か故旧かでない限り、それは甘んじて奴隷の役廻りを勤めさせられるようなものではないか。まして相手は女です。
「友さんならかまわないから、こっちへ来てわたしの背中をお流し!」とは、何のよしがあって言うのだ。畏《おそ》るべき親方のお角さんでさえも、こういうことは言わなかったはずです。
「ばかにしてやがらあ」
 これが、今晩はどうしたものか、おめおめと米友ほどのものが異議なく、こうしてお銀様の背中を流しはじめているのです。
 米友に三助の役をつとめさせつつ、悠然として背を向けている暴女王の横柄さよ。
「友さん、お前は力があるから、お前に流してもらうといい気持よ」
「うーん」
 米友が唸りました。
 もう夜更けというよりか、夜明けに間近い時間になっているのに、お銀様は悠然として米友に背中を洗わせて、友さん、もういいからいいかげんにして頂戴よ、とは決して言わない。米友がゴローの垢《あか》すりで生一本に、それでも女の肌だと思うから多少の加減をしてキュキュとこする肌ざわりにでも、思い設けぬ快感を感じ出したものか、いつまでもその肌をこするに任せて、いつまで経っても、もういいよとは言いそうもない。
 ところがまた一方、おめおめと三助の役目に服従していた米友は、いやだとも言わない、いやな面《かお》もしないで、この柔らかなお銀様の肌を、加減しいしい、生一本の力でこすりたてながら飽きたとも言わない。
「ねえ、友さん、お前、さっきのことをどう考えました」
「さっきのことって何だえ」
「おや、この人はもう忘れてしまったのかい。ほら、道庵先生のおともの方を断わって、わたしたちと一緒にこれからの旅をすることさ」
「うーむ」
「どっちへか心が決まりましたか」
「うーむ」
「唸《うな》ってばかりいないで、どっちとかお決めなさい。どっちとか決めるというよりは、あっちを断わって、わたしたちの方へ来ておしまいよ。話はわたしがきれいにつけて上げます、どちらへもお前さんの面が立つようにしてあげるから」
「うーむ」
「それともお前さんは、わたしたちと一緒の旅はいやなの、道庵先生が好きなんだね?」
「好きというわけじゃねえ、あの先生にゃ義理があるからね」
「義理なんぞは、わたしの方で何とでも話合いをしてあげます」
「話合いさえつきゃな」
 米友が、うっかりここまで口を辷《すべ》らしてしまいました。
 米友がこう口を辷らしてしまった以上、こちらへ八分の気があると見なければならぬ。本来米友としては、そんな相談に乗るべくもないはずなのに、今は道庵先生の許《もと》を辞して、さてこの暴女王と、かの怪しむべき男との一行に加わろうとする下地が、かなり出来ていると見なければならぬ。
「わたしにお任せなさい」
「うん」
 米友が、うんと言ってしまったのは、かりそめにも取返しがつかないようです。このうん[#「うん」に傍点]は同意の意味のうんだか、いつものように単に感情だけを表明する唸り声に過ぎないのだか、よく分明しないけれども、少なくとも、分明しない意味の返答を与えたことだけは、米友の重大なる弱味でなければなりません。
「では、そうしましょう、嬉しい」
とお銀様が言いました。
「ううーん」
 次に米友が、また唸りました。嬉しいと言ったお銀様の言葉は、勝利の快感を多少こめて言ったのか、冷かし気持で言ったのか、そのこともよく分らないが、米友の唸ったのも、安請合《やすうけあ》いをして、しまった[#「しまった」に傍点]! というつもりで言ったのか、何かまた別に深く腹にこたえるものがあって言ったのか、そのこともよくわからないのです。
 だが、もう少し、解剖して言うと、結局、米友という人は、お銀様という女が嫌いではないのです。つまりどこかに好きなところがあるに相
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