てわれと我が肌をさすっているし、米友氏はそのうしろ姿のみを眼に据えて眺めているのですから、おたがいに見せたり見られたりする目的としては完全に達せられているのですが、それによってもおたがいの羞恥心《しゅうちしん》というようなものには、全く相触れず、相知れざる形になっていることであります。
ああ、よく肖《に》ている!
米友は詠歎的にまでといきをつきました。
処女、或いは処女に遠からぬ女性というものの肉体は、誰が見てもそんなに違うものではないでしょう。それにしても、米友の眼からすると似過ぎている。こういう場合には、この男は、実体と幻想とを混同したがる癖がある。時とすると、死者と生人とをさえ混同したがる癖があるくらいだから。
間の山から紀州へ向っての山中で、盗賊の濡衣《ぬれぎぬ》を乾かすためにあの女の裸体姿を見て、自分は何とも思わないのに、相手の女をして面《かお》を赤くさせたこともある。このまま行ったならば、この男は、ついにその実体と幻影と――死人と生人との境界線を突破して、湯殿の中に面を突込み、「玉ちゃん――お前ここにいたのかい」と叫ぶかも知れない。
かかる敵あって自分を覘《うかが》うとは一切御存じのない湯殿の中の美しい肉体は、もはやその危険が身に迫ったことをも一切お感じがなかったが、天成不思議な力で、自他共にこの幻想から救わるるの時機が到着しました。
何の気もなしに美しい肉体のうしろ姿は、この時クルリと向き直りました。向き直ったというのは、一切の環境が変ったということで、それがために、以前右にあったものは左となり、左にあったものは右となり、前にあったものが忽然として後ろに廻るという革命なのであります。
「あっ!」と米友は、今度こそは正銘に叫ばなければなりません。今までのは、驚異と詠歎とを隠して慎しむだけの含蓄があったのですけれども、今は、到底それが追っつかなかったのですから、是非もなく、
「あっ!」
と米友流の叫びを立てて舌を捲いて、地団駄を踏んでしまいました。
後向きになっていた美しい肉体、その肉体から来るあらゆる米友としての幻想や、詩想が、僅かに向きを変えたその瞬間に、刎《は》ね飛ばされたと言おうか、蹴散らされたと言おうか、蹂躙《じゅうりん》とも、潰滅《かいめつ》とも、何とも言おうようなき大破壊に逢着してしまったというのは、後ろの美しさに引きかえて、何というこれは醜悪、醜悪というよりも恐怖、恐怖というよりも威嚇、威嚇というよりは侮蔑と言おうか、冒涜《ぼうとく》と言おうか、その美しかった肉体の主のその面貌!
米友も、不動様の面影以来、はじめて怖ろしいと思う面を見ました。それがために「あっ!」と言って、叫びを洩してしまい、地団駄を踏んで躍り上ったのですが、同時に、中の主はクルリとまた美しい背を米友の方へ向けてしまい、
「だあれ!」
その声は、怒れる如く、さげすむ如く、呪うが如く、狼狽《うろた》えたる如くして、実は悠然たるものがあり、米友をして三斗の冷汗の、身のうちに身を没するの思いをさせるだけの価値がありました。
だが、もうこうなっては、のがれるわけにはゆきません。先方の咎《とが》めが、許すまじき威圧を以て抑えているという意味のみではなく、実は米友の良心として、もはやこのままごまかしてはいられなくなりました。
「どうも済まねえ」
咽喉が引きつるような気持で、まずこう言って米友が詫《わ》びました。
「誰に済まないの?」
「なあに、つい、その、夜廻りをしていたもんですから」
米友としては、しどろもどろの弁解でありました。ところが、内の人は存外、落着いたもので、
「お前、友さんじゃないの?」
「うむ」
米友が唸《うな》りました。その瞬間に気のついたのは、この女人が別人ならぬお銀様であることを知ったからです。
湯屋のぞきの最初から米友は、その人とはちっとも気づいていませんでした。後ろ姿の美しい肉体を見て、そう気がつかなかったのみならず、クルリと正面を切った時に、その名状し難い面影をまともに見せられて、絶大の悪感と恐怖とを感ぜしめられても、なおその人とは覚ることはできませんでした。これはあたりまえのことです。誰でも今晩まで、この暴女王の正体を正のままでこう拝ませられた経験のあるものは、おそらく近親のうちにもないだろうと思います。米友の見ていたお銀様は、覆面を放すことなく、その覆面をさえ常に横に向けているお銀様でありました。
しかるに、今晩、この際、この暴君と荒神とを兼ねた女王の、生ける正体を拝むことのできた偶然――
米友は、ただただ戦慄しているのみでしたけれど、中なる主は、存外という以上に冷静なもので、そのくせ、ちっともこっちへは再度の正体を向けないで、
「友さんなら、かまいません、こっちへお入りなさい、そう
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