前に言ったような、何とも自分ではつかまえどころのない一種の空想にかられて、そこにじっと留って考え込んでいました。
その時、不意に自分の立っている左手の方の一方がパッと明るくなって、柿の木に反射するのを感じました。
そこで振向いて見ると、一見してそこが本宅についた湯殿であることを知り、湯殿の中に燈火《あかり》がついて、誰か人あってそこへ入浴に来たものだと感づきました。
「なるほど」
そう、うなずいたけれども、用意周到な米友は、人を驚かさんことを怖れたものです。
それは、この深夜、自分がここに立っていることなんぞ気取られようものなら、確かに入浴の人を驚かすことは勿論《もちろん》、そういう自分も、一時なりとも疑いを蒙《こうむ》るの立場に置かれることを心配しないわけにはゆきません。
今までに米友は、誤解から来る釈明のかなり面倒なことを、知りぬいている。
万事は咎《とが》めず咎められないで済めば済ましてしまった方がよい。
そこで、動きもせず、言葉もかけず、暫くそのままの姿勢を続けていて、そうして或る機会を待って、痕跡を残さずに退却してしまおうと考えたものです。
だが、入浴の主の方は、無論、米友が左様な細心な思慮をもって、つい軒下に立っているということを知りません。
いったい、深夜、こんなところに立往生をしなければならないのやむを得ぬに立到った米友の方も幾分の不心得が無いとはいえないが、この深夜、浴室へ立入って来た客人の方も度外《どはず》れでないということはありません。
しかし、お客はお客として、或いは深夜に到着することもあるし、宿は宿として、不時の客の到着にも風呂を沸して待つというのが商売|冥利《みょうり》の一つでもありますから、それはいずれを咎《とが》めだてするというわけにはゆかないのであります。
しかし、風呂場の引戸があいていたものですから、それは外より内を見るにはよろしく、内から外を見るには適していなかっただけに、米友としては形勢が有利のような、不利のような立場に置かれてありました。
米友としては、見まじとしても、風呂場の中を見ないではおられぬ立場に置かれ、風呂場の中の人としては、見ようとしても、米友の何者であるかは見られないような立場に置かれてありました。その途端、
「あっ!」
米友の胆を冷やしたというよりは、叫ぼうとして、その舌を引きしめ、眼を円くさせたのは、引戸の隙間からありありと見える中なる人の姿、それはほんとうに美しい女の肉体の一塊であったからであります。
といっても、米友が、女の裸体美の曲線の一つや二つに驚いてうつつを抜かすような男でないことは、知っている限りの誰もが保証することでありましょう。
すなわち、この男は十四世紀の高師直《こうのもろなお》であったり、明治末の出歯亀氏というような、女性に対しての一種の変態性慾を持っている男ではありません。
女の肉体美に面《かお》まけがして、体がすくむというような男でないことは勿論だが、それが、「あっ!」と言って、一時、のけぞり返るほどに眼をすましたのは、それは申すまでもなく女の肉体そのものが、自分の幼な馴染《なじみ》であるところの間《あい》の山《やま》の女性の、それの面影が電光の如く、幻影の如く眼をかすめたからです。爾来《じらい》、この男が女性と見れば、その一人をしか幻出することのできないらしい性癖は、名古屋に来てから暫く影をひそめたものですけれども、決して絶滅したわけではないのです。
それが今、眼前に現われました。つまり、軽井沢の勇者としての飯盛女の待遇もそれに過ぎなかったように、ここでもまた思いがけなく女性の肉体を見せられると、「あっ」と心頭に上り来ったのは、間の山以来のその複雑した哀傷の名残《なご》りでした。
そこで彼は身ぶるいしながら、篤《とく》とその肉体を見直さないわけにはゆきません。といっても再応断わっておかなければならぬことは、この身ぶるいが、前世紀の足利将軍家の執事氏の為《な》した身ぶるいと全然性質を異にする身ぶるいであることの証明としては、肉体そのものだけを見れば、間の山の彼女を聯想することはあえて米友ひとりの幻想のみではなく、それを知っているものの公平に、ああよく似ているなと、偲《しの》ばざるを得ざらしめるほどのものなのです。
そこで米友は、誰はばからず身ぶるいをしながら、いやというほどその肉体美をながめ尽しておりました。
ここに将軍の執権師直氏よりも、東京市外大久保の植木屋池田氏よりも、なおいっそう強烈なる注意人物を自分の背後に持っているということを知らない湯殿の中なる肉体氏は、悠々閑々としてその美しい肌にとどまる汗を拭っていました。幸い、どちらにも都合のよいことには、なかなる肉体氏は米友に対しては、あちら向きになっ
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