」
「そうはいかねえよ」
「いきます、話合いでどうにでもなりますよ」
お銀様には何か期するところがあるらしく、
「ねえ、友さん、これからわたしたちの旅の行先というのは、どこへどう行くのかわからないのですよ。わからないだけに面白いじゃありませんか。道庵先生なんていう人は、ああしてふざけきって歩きさえすればいい人なんです。お角さんていう人も、ああして抜け目なく商売をあさって行けばそれでいい人なんです。道庵先生はお角に任せておしまいなさい、あの親方なら悪いようにはしないでしょう――道庵さんの方でも、友さんなんぞについていられるよりも、女軽業の親方をダシに使って歩いていた方がお歯に合っていいでしょう、ね、友さん、そっちは、わたしがいいように話をして上げるから、これからわたしと三人だけの旅をしましょうよ」
「いったん約束したものを、そう自分勝手のことはできねえ」
それでも無事に宿まで帰りつきました。
米友の眼から見れば、この手のつけようのないやんちゃなお銀様、今夜夜遊びをして、したい三昧《ざんまい》のことをし、言いたい三昧のことを言っている、知らず識《し》らずそれのお守役をさせられて来た米友に、何だ、ばかにしてやがら――という啖呵《たんか》を切るの思案さえ与えません。
しかし、今晩は特に警戒を要するのだという、米友の責任感だけは強まりました。
いよいよ図に乗って、あの二人は、ああしてこれから手に手をとって、どこという当てもなく旅に出かけるつもりらしい。考えなしの至りだが、あの我儘《わがまま》なお嬢様なるものの仕事だから、何をやり出すか知れたものではない。自分たちが実行するだけでなく、この米友をも捲添えにしようとそそのかしをかけるんだから恐れ入る。
まあ、それ、親方のお角さんでさえもてあます別仕立ての難物のことだが、まんざら馬鹿や気ちがいでもないのだから、そこには程度というものがあるだろう。明日になって親方に引渡してしまえば、それで自分の責任は済むというものだが、大事なのはその明日の朝までだ。今晩のうちに飛び出されてしまった日には、自分の責任がフイになると同時に、お角さんのお目玉のほどが思いやられる、それよりは、頼まれた自分としての面目が立たないということになるのだ。
今晩一晩は寝ずに、お銀様の行動を監視していなければならないと考え、そうしてその実行上、お銀様の寝間をそれとなく注意する一方、外へ出て塀の外門の締りなどを厳密に気をつけて廻って歩きながら、米友の頭の中にも、この前後から動揺して穏かならぬものが捲き起っているのです。
古関からの帰り途、お銀様から言われたこと、道庵先生は親方のお角さんに任せて置いた方がいい、これから先は、わたしたちと一緒に旅をしないかと、そう言われたことは、言った方も一時のお座なりであり、聞いていた自分はむろんうけつけもなにもしなかったが、本来、自分はあの尺八を聞いている前後から、旅をしてみたくてたまらない心持に襲われていたのだ。
旅をしてみたいというけれども、現在、自分は旅をしているじゃないか、と言われればそれまでだが、どうも自分の今の旅は、これは本当の旅ではないというような感じが、米友の頭の中に捲き起されているのです。
旅というものは、もっと自由のものでなければならない。自由といわなければ、もっと無目的のものでなければならないのに、自分のはあんまり窮屈すぎ、目的が有り過ぎる。
さきほど尺八を聞いていた時の、あんな流れるような旅をしてみたらどうなるんだ。
現に、今晩の無分別者どもは、どこへどう落ちて行くのか知らないが、その心持の呑気さ加減が、ばかばかしいほど現実というものを無視している。
道庵先生の世話が焼ききれず、お角親方には頭が上らない旅をして暮すよりも、こんな連中と行当りばったりの旅をして歩いた方が気楽じゃねえかしら――
おいらだって、お君という奴が達者でいれば、二人で旅から旅を渡って、歌を唄って歩いていた方がなんぼう気楽だかと考えている。
旅は旅だが、今のおいらの旅は人のおともをしている旅だ。
気儘《きまま》の旅がしてみてえとは思わねえか。
米友はそぞろにこんなことまで考えてはいるが、それは単に何かのはずみで空想に耽《ふけ》らせられたまでのことで、やはり米友の本質として、それを実行に移して、二人を幇助《ほうじょ》して、夜逃げ、高飛びにうつろうなんぞとは及びもつかぬことです。
それはそれとして、厳重な警戒心をもって今晩のところ、責任を果さねばならぬという責任感は、いよいよ強くなりつついったん部屋に帰った米友は、またも二度目の夜まわりをはじめました。
五十七
米友は、米友としての深夜の警戒から、この宿の周囲をうろつき、大きな柿の木の下に立つと、この
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