ならない、愛することが自由ならば、その自由を異動させることも自由でなければならぬ、物の相愛を犯してはならないように、その愛の異動をも妨げてはならない、愛は報酬関係であってはならない、また権力関係であってもならない、愛の異動を水の流れのように承認する以上は、嫉妬というものが微塵《みじん》も介在してはならない。
 たとえば、自分の眼前で他の相手を愛しても、戯れても、それを妨げてはならない、それを嫉《ねた》んではならない、まして復讐の手段を講ずるなんて、そんな不条理のことをしてはならない――お銀様はこういうような愛情についての自分の論理を根強く主張しましたが、
「わたしは今、愛情のことばかり言いましたけれども、わたしたちが住もうという世界は、愛情の自由を与えることばかりではありません……有形にも、無形にも、人間のすることに人間が決して干渉してはならないのですよ、圧迫してはならないのですよ。そこには、服従の卑屈があってはならないように、勝利の快感もあってはならないのです」
 不思議とも、矛盾ともたとえようのないのは、故郷にあっては無比の暴君として、親をももてあまさせているお銀様が、ここで自分の描く世界には、全く圧制というものの無い世界を説いています。
 無制限に許してしまえば、罪というものはないものですよ。同時に無制限に禁じてしまえば、そこにはまた罪は起りません。許す者には許し、禁ずる者には禁ずるから、そこに不平が起り、反抗が起ります。不平と反抗の起るところに、暴圧の力が来るのは影と形と離れないようなものです。世間の人は、わたしを暴女王だと言います。それならそれでいいから、わたしに絶対の暴圧を許してみて下さい、わたしは決して暴君ではあり得ないのです。そうでなければ、絶対の力でわたしを威圧して下さい、わたしたちの暴虐なんぞは物の数にも入らないはずでございます。
 わたしは、物を惜しみはしませんよ、もし与えていい人が見つかったら、なんでもかんでもみんな、洗いざらいその人にやってしまいますよ、ここからここまでと区分して、おれの物だ、かれの物だなんて、ほんとうにばかばかしいことの骨頂です。所有慾というものは、悪魔の拵《こしら》えた人間への落し穴の、いちばん巧妙で、そうしていちばん危ないものなのです。
 ごらんなさい、総ての人間界の浅ましい葛藤《かっとう》のすべては、みんなこの所有という悪魔の巧妙な眩惑のわなにひっかかったその結果じゃありませんか。所有によって人間はみな魔薬をかけられて、それを多く所有しているものが最も富める者で、最も幸福なりという観念ほど、人間を迷わす大きなものはありません。それに迷わされて、持たなくても済む重荷にうんうんと押しつぶされている、人間の浅ましさほど笑止なものはありません。
 所有が決して、富をも幸福をも齎《もたら》さないのみならず、かえってその反対と裏切りとをつとめていることは、物事をじっとほんの少しばかり眼を留めて見つめていれば直ぐに分ることなのに、ですから、わたしの領土では、決して一事一物をも所有ということを許しません、形の上でそれを許さないのみならず、所有を思うことをさえ許さないのです。
 それはそうなければなりますまい、あらゆる眠り薬と、迷いから眼が醒《さ》めて、最後の結局に、自分の持てるものとてはこの身一つのほかに何もないと覚って来た、その背後には、はやこの身一つでさえ、自分のものではないという消滅の神様が、穴を掘って待っているのです。
 ああ早くその無所有の領土が欲しい、それを作りましょうよ、わたしはその土地を購《あがな》い求める力がございます――皆さん、わたしに力をかして下さい、おたがいにその世界に住もうではありませんか――とお銀様は、一座の前でこれを絶叫したけれども、無所有の世界を所有せんとするこの撞着《どうちゃく》した熱望について、自身はなんらの矛盾を自覚するほどに昂奮からさめてはいないようです。
 そこへ、また颯《さっ》と強い夜風が吹いて来て、焚火を薙《な》ぎ倒そうとしましたので、米友が立ち上りました。

         五十六

 まもなく、不破の関のあとを立ち出でたお銀様は、米友と相前後して帰り道についたが、二人だけで同行者はおりません。
 多分――あの板廂《いたびさし》の――心きいた関守に、大切の人を預けて安心がいけると信じたればこそ、お銀様はなおさめやらぬ昂奮のうちから、関ヶ原の本宿へ帰る夜道を、米友を捉えて、問答を試みました――
「友さん、お前、これから、わたしたちと一緒に旅をする人にならない?」
「ううん」
と米友が、重い含み声で頭を左右に振り、
「おいらは道庵先生に頼まれた人なんだ」
「あの先生のことは、お角さんに任せて置きなさい、そうして友さんは、わたしたちと一緒になるといい
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