あわただしく米友が駈けつけると共に、その音はやみました。
「誰じゃい」
「こんばんは――」
「何しにおいでだね」
「少しの間、ここで待たせておくんなさい」
「ゆっくりお休みなさるがよい」
関守のあるじは、笛の清興を妨げられたことを咎《とが》めないで、快く米友の縁に待つことを会釈《えしゃく》しました。
思うに、月明の夜、こんなところへわざわざ訪れて来るほどのものは、たとえ、その者に多分の不作法の咎むべきものがありといえ、詮《せん》ずるところは風流を解するところの人でなければならぬ、自他の風流を相許すこそ風流人の礼儀なれ。
そこで、尺八をやめた庵《いおり》の主は、米友を談敵《はなしがたき》としてもてなしはじめたものです。
ところが、押しても、突いても、この男からは風流の音が出ないことを一時は意外なりとしましたが、また改めて、そこがまた一風流なることをも許したもののようです。
味もそっけもないこの風流漢は、羅漢を噛《か》み潰《つぶ》したような面《かお》をして、縁に腰をかけたままで、お愛想一つ言わないから、関守の主も強《し》いてそれに取合わないで、またおもむろに歌口をしめして、前の一曲を吹きすさませたものですから、自然、縁に羅漢を噛みつぶしている米友の形が、神妙に「関山月」を聞き惚れるところの童子の形となりました。
関守の主は、吹いて吹いて吹き続けているうちに、ぱったりと月が落ちて、天地が暗くなりました。
暗くなると共に、秋の夜風が特にざわめいて――
「どうです、月が落ちました、焚火でもおはじめなすっちゃあ」
また、尺八をやめて、縄のれんの中から関守が一抱えの薪をかかえて庭へ下りました。
「そこらから、杉の落葉を少し掻《か》き集めて来て下さらんか――この辺のところへひとつ、焚火をいたしましょう」
方形、輪形、柱形、自然石の幾つもある庭の真中の椎《しい》の大木の下へ、薪を置いて、関守がカチカチと火をきりはじめたものです。
米友もそれに手伝って、あたりから落葉と木片とを掻き集めました。
「どちらからおいでなすった」
「江戸を出て、中仙道を通って、尾張名古屋の方からおともをして来たんだ」
「おやおや、それはそれは、長路の旅で……してお連れの衆は……」
「連れの衆といっても、途中で変った相手なんだが、今夜はここを合図にして待合わせることにしたんだよ」
「左様でござったか」
これは単に土着の番人ではない、前身には何か曰《いわ》くのありそうな関守です。しかし、前身は何であろうとも、今は万事物穏かな初老人。
火が明々と燃えさかっている。二人が向き合ってそれにあたり出した時に、闇路の外で人の声がありました、
「おやおや、もう一息というところで月が落ちました、それでもここが不破の関屋のあとに相違ありません」
と言って、男の手を曳《ひ》いて、開けっ放した木戸口を、爪先さぐりにそろそろとこの場へ入って来たのはお銀様でありました。
関守と、米友とは、その焚火の光をできるだけ放流せしめて、そうして新たに来合わせた人の道しるべに供しようとする。
「お危のうございますよ、石塔が倒れていたり、木の根が張っていたり致しますから、御用心あそばせ」
初老人なる関守は、やはり万事につけて親切です。
「ごめんあそばせ、深更にお騒がせ致して相すみませぬ」
「いや、風流には、夜の早いと遅いとはござらぬでな、やつがれも、今晩は夜もすがら竹を吹いて吹き明かそうと企てておりました」
「このお縁を拝借させていただいてもよろしうございますか」
「よろしい段か――但し、ごらんの通りの侘住居《わびずまい》、差上げたくも敷物に致すものさえござらぬ始末でな」
「いいえ、その御心配には及びませぬ。まあ、これが古《いにし》えの不破の関のあとなのでございますか」
「ごらんの通り荒れ果てております。荒れてなかなかやさしきは不破の関屋の板廂《いたびさし》、と申す本文には合い過ぎておりますが……」
焚火に照らされた中空の老樹大木が、枝を張って、天空に竜蛇の格天井《ごうてんじょう》が出来ているように見えます。
風がまた強く鳴り出して、壁にかけ捨てにしてあった笠をハタハタと鳴らす。
「あなた様でございますか、さいぜん、尺八をお吹きになりましたのは」
「はい」
「たいそう御風流でございます、このところに永らくお住まいでございますか」
「いいえ、やつがれは本来、ここの関守を頼まれたわけでもなんでもございませぬ、諸国修行の傍ら、これへ立寄りますると、いかに荒れたるが名物の不破の関屋の跡とは申せ、あまり荒れ果てたのみか、この家に『売家』の札さえ張られていたものでござる故に、いささかの金子《きんす》をもって買い取り、仮りの住居といたしましたものでござるが、なに、特別の執着があるわけでもござり
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