しのために見つけておくれだったねえ、このお礼は何でも望み次第よ」
 お銀様は、その澄みきった人の身体を、火になれ、水になれと、からみついたまま離れません。
 米友でさえが、この吐く息、吸う息を、巨蛇《おろち》の息ではないかと疑ったほどで、相手を丸呑みにしてしまう執着を、さしもの米友が目の前で見ながら、手をつける術《すべ》も、文句をいう隙もないのです。
「ああ、わたしはこの旅のうちに、きっと、あなたに逢えるように思われてなりませんでしたが、果して……それでも今晩このところで、こうして逢えるとは誰が思いましょう、わたしは今晩に限って、こんなに彷徨《さまよ》い出たというわけではありません、今晩わたしは一つの死んだ人の骸骨を探しに出かけたのが幸いになって、生きたあなたを見出しました、もう放しません、放すことではありません」
「ああ、お銀どの、ここは美濃の関ヶ原ではないか、ここでそなたに逢えようとは誰も思わない。無事でしたか」
「あなたこそ、よく御無事でいて下さいました、ほんとうに御無事で、ちっとも変りません、相変らず、何というこの肌の冷たいこと。それで、まだ持って生れた悪い道楽がやめられませんのねえ」
 ほんとうに熱い――女の執念が、道成寺の釣鐘をどろどろに溶かしてしまって、七日の間、人が寄りつけなかったというような伝説を、米友もほのかに聞いている。
 冷静で、権があって、人を人とも思わぬお銀様という人が、一団の火のかたまりのようになって、この人にぶッつかり、吸いつき、しがみつき、燃えつく執着を、米友がはじめて見ました。同時に言い知らぬ危険を感じはじめたのは、全く自分の眼の前で、この女の人が、この男を湯のように、鉛のように、溶かしてしまいはしないかとの怖れでした。
 その時にお銀様は、米友の方へ顔だけを振向けて、
「友さん、お前もし、そこでわたしのすることが見ていられないなら、見ていられないでいいから、ここを離れて頂戴――少しの間でもいいから、どこへか行ってしまって下さい。わたしはこの人に向って言わなければならないことがたくさんあるのです。ですから友さん――お前、見ていられないに違いないから、おとなしく外《はず》して項戴――ああ、そうそう、いいことがあります、あれあの通り尺八の音が聞えています、お前さんはこれからあの笛の音をたよりに不破の関の跡まで行って、そこで、わたしたち二人の帰るのを待っていて下さい、そんなに長いことじゃありません――わたしたち二人が、ここで何をするか、何を話すかはお前さんが聞いていても、見ていてもつまりません」
「ふーん」
「お帰り、いいから帰って頂戴。こういう時は、おとなしく席を外すのが人情というもの、礼儀というものなのよ――関所へ先廻りをして、少しの間、待っていて頂戴、直ぐ後から行きます」
「ふーん」
「お帰りなさい。帰らなければいいよ、わたしはお前の見ている前で、わたしのしたいことをしたり、言いたいことを言ったりするから」
「ふーん」
「友さん、お前は、お角の言うことなら何でも頭を下げて聞くくせに、どうしてわたしの言うことを聞かないの。ようござんす、それほどわたしをばかにするなら、わたしにも考えがあるから」
「そりゃ、行けと言えば行きまさあ、だが……」
「行けと言ってるんだからおいでなさい、先へ帰っていて下さい、お前がいては、この人と肝腎《かんじん》の話をすることができない、この人と思いきり話をすることができないから、後生《ごしょう》だから……」
「帰る、帰る、そうまで言うんなら、おいらは先へ帰ってやらあ」
「帰って頂戴――でも、よそへ行っちまってはいやですよ、つい、わたしたちも後から行くから、いま言った不破の関の関所の跡、あの笛の音のするところが、たしかにそうよ、あそこで待っていて頂戴」
「うむ――」
 宇治山田の米友は、後ずさりにすさって黒血川の汀《みぎわ》へ来て見ると、自分の手から飛び離れて、一度宙天へ飛んだ英雄のされこうべなるものは、無事にまた、洗われたいささ小川の中に落ちて、流れの真中の浅瀬にかぶりついたまま、パッカリとうつろになった大きな眼窩《がんか》が生けるもののように、男女相擁しているあなたの岸を見つめていました。
 一旦、それにギョッとした米友は、
「ちぇッ、何が何だかわからねえが、天下無類の我儘娘《わがままむすめ》の仕事だ、見ちゃいられねえや」
と捨ぜりふで驀然《ばくぜん》として、道なき道を「関山月」の曲の音をたよりに走り出しました。

         五十三

 命令されたのか、懇願されたのか、哀求されたのか、追払いを食ったのか知らないが、とにかく宇治山田の米友は、ひとり短笛の音をたよりに、程遠からぬ不破の古関のあとへやって来ました。
 なるほど、短笛の音はここより起ったに相違ない。
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