て、独鈷《とっこ》の帯か何かを締め、小刀を前にして、大の方を如上の如く提げているのですが、最も幸いなことには、全く、この種の人のよくする覆面というものをしていないことでした。
本来、覆面というものは、しないで済めばしない方がいいものです。第一風通しは悪くないし、手数はかからず、覆面なしで押し通せれば世の中は覆面なしに越したことはないのです。
しかしながら、人生には、ところと、場合と、時とによって、どうしても生地《きじ》のままの面目では押し通せないことがあるのです。天下の選良を集めたという国家の議会に立つ台閣の宰相でさえ、時としては万機公論の間《かん》を頬かむりをして押し通さねばならないことがあるくらいですから――夜な夜な町の辻を歩いて、人間の一人も斬ってみようとする輩《やから》が、相当の覆面をするのは当然過ぎた当然のようでありますけれども、ここも天下の関ヶ原とはいえ、ゆるさぬ関が行く人の足を止めたのは、それは千有余年の昔のことで、まして徳川期となっては、公道を宮と鈴鹿の方面にとられてしまって、蜀山《しょくさん》や一九の輩《ともがら》をしてすら、ふわふわの関と歌わしめたほどの荒涼たる廃道になっているから、この月夜を彷徨《さまよ》う何人《なんぴと》といえども、覆面をしてまで人を憚《はばか》るほどに人臭いところではなかったのです。(お銀様だけが相も変らないのは、それは外に向ってする覆面ではなく、己《おの》れの良心に向っての覆面かも知れません。)
そこで、今、宇治山田の米友の当面に立つところの相手も、宿を出る時には、さすがに、その良心にだけでも覆面をかけて出る必要があったかも知れませんが、今はその必要がないので、おのずから秋風に吹き払われて、本来の素面素小手で相対しているが故に、勢いまともに槍先をつき続けている宇治山田の米友の眼底に、その面貌風采が手に取る如く映り来《きた》るのは当然のことです。
そこで、心を落着けて、よく見るの余裕を得て見ると、右の手に持っていた刀を、単に左に持ち替えたと見たのは僻目《ひがめ》でした。左の方に持ち替えたのは鞘だけで、右の手をダラリと下げているから、最初はそれと分らなかっただけのもので、そのだらりと下げた右の手に、まさに鞘を出た白刃そのものをぶらさげていたのです。ただ、その下げっぷりが、もとより下段《げだん》にもならず、側構《わきがま》えでもなし、全く格に無いところのダラリとした下げっ放しなのですから、刀をさげていないと見ることが、正しかったくらいのものであります。
「おっと、待ちな!」
と、その時に米友が持前の奇声を発しました。
これは充実した気合ではなく、むしろ充実が脱け出した意外の表情に出る奇声でありました。
「や――お前《めえ》は、その、いつかの弥勒寺長屋《みろくじながや》の、その、あれじゃねえのか」
「うむ――」
「本所の鐘撞堂《かねつきどう》の弥勒寺長屋に、おいらと一緒に住んでいた、あの時の、あの人じゃねえのか。お前という人は、もしそうならそうだと言ってくれ――江戸の本所の鐘撞堂新道の、弥勒寺長屋に覚えはねえか、それとも、甲斐の甲府の城下の闇夜の晩……」
杖を構えたなりで、穴のあくまで相手方の覆面をしない面《かお》を見詰めて、米友がこう呼び立てたものです。ところが、
「そういうお前は友造だな」
「うむ、いかにも、友造だ、その時の友さんがおいらなんだ」
「そうか」
先方は、実に憮然《ぶぜん》たる返答ぶりでありました。
あわただしく杖を畳んだ米友が、その間に一文字に、二間余りの川幅をふっ飛んで、つい先方の胸元に迫り、そのまま自分の顔を突きあげて、相手方の顔をなめるように、つくづくと見上げて、
「違えねえ、違えねえ――お前は弥勒寺長屋にいて、おいらと一つ鍋の栗を食ったことがあるだろう、そうしておいらを出し抜いて、毎晩毎晩脱け出してどこへ何しに行った、それを今ここで、おいらに素っぱ抜かれたら困るだろう!」
米友が連呼しながら、水のように澄んだ相手方の身の廻りで、幾度も幾度も地団駄を踏みました。
五十二
それよりも意外に早かったことは、米友なればこそ一飛びに跳ね越えた二間有余の黒血川の流れを、裳《もすそ》も濡らさずに渡って来たお銀様が、米友の覗《のぞ》き込んだ面を、無遠慮に横取りしてしまって、
「まあ、あなたは、わたしのあなたではありませんか、どうしてこんなところに……まさかこの声と、この熱い手とをお忘れにはなりますまい、染井の屋敷のことは夢ではありませんでしたねえ」
その、自分では熱いという、見た目には白いお銀様の手が、するすると相手方の首を抱いてしまい、米友の見る前で、熱鉄のように熱い唇が、溶けるように物を言いました。
「ああ、友さん、お前はいい人をわた
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