ないはずです。
彼は口小言は言うけれども、その為すべき仕事が困難と複雑を加えれば加えるほど、自己の負けじ魂と忠実とが加わってくるところの性格を持っている男です。それがかくも自暴《やけ》に、心なき枯骨を天上に向っておっぽり出したということの理由には、それだけの筋道があるので、筋道というのは、特にくどく説明するまでもなく、そうしなければ自己の生命問題に触れるからでありました。
ごらんなさい、名将の髑髏《されこうべ》と称するものを天上に投げ上げた米友は、そのまま後ろに転び、仰向けに転がって、そうして、岸の上にさして置いた例の杖槍を手に取ると、かねて甲府城下の霧の夜の闇で演じた独《ひと》り芝居の時の如く、仰向けに転んで、その杖槍を構えたところというものは、四方転びの縁台をそこへ持って来て抛《ほう》り出したようなものです。
ですから、お銀様も、そのはずみを食って、ものの二間ばかり後ろへ飛びのいて、さいぜん髑髏を探り出したところの尾花苅萱《おばなかるかや》の後ろへ身を引いたものです。
ただ、動かないのは、玲瓏《れいろう》たる天上の月の影でありまして、この通り照り渡っている良夜でありましたから、光はいよいよ冴《さ》えに冴えて、この場の光景を照らし残すところはありません。
米友ほどの者が、かくも狼狽周章を極めるのに、天上の月と、向う岸の風物は、全く澄みきったものでありました。
向う岸に物を尋ねた人は冷然としてそこに突っ立っていること少しも変らない。強《し》いて変ったところを認めろといえば、今まで右の手に持っていた二尺三寸以上はあるところの大の刀を、ただ単に左の手に持ち替えただけのものでした。
「じょ、じょ、じょうだんじゃねえ」
それにも拘らず、宇治山田の米友の醜態を見よ。
それは醜態というより外はない、米友ほどの豪傑として。
でも、ようやく立て直し、
「じょ、じょうだんじゃねえ――人を油断さして置いて――降ると見て傘《かさ》とるひまもなかりけりで、やろうなんて、じょ、じょうだんじゃねえ、おいらだからいいけれども、ほかの者なら、やられちまうところだ。さあ、もう心得たもんだ、どうでもしてみやあがれ」
ようやく起き直ったけれども、その張りきった用心と、夜目にも燃えるような眼光は、以前に倍したものです。得意の杖槍を如法に構えて、その向っている先は、向う岸にあって水のように澄みきって物をたずねた人の面上にあります。
ここに至って、米友はその意外なる醜態から全く救われました。
足は地から生えたように、筋肉は隆々として金鉄が入り、そのピタリと構えた一流の槍先は、金城鉄壁をも覆《くつがえ》すの力に充ち満ちていました。
いい形です。運慶の刻んだ神将だの、三十三間堂の二十八部衆のうちに、まさにこれに類する形がありまして、わが宇治山田の米友がこういういい形を示すことは、幾年のうちに幾度もあることではありません。求めても見ることを得られない代りに、求めずして展開せしめられることが甚だ稀れにある。
最近に於ては、信州川中島の夜霧の中で、ひとりこの恰好を戯れにしたことがあるけれども、真に必死の相手をもってこの独《ひと》り芝居を演じた真正の型というものは、まずその昔の甲府城下の霧の闇の夜のほかにはありませんでした。
今や、美濃の国、関ヶ原の原頭、黒血川のほとりに於て、今晩はからずこのいい形を遺憾なく見ることを得た見物のよろこびは至大なものでなければならないはずですが、得て、こういう天地の間《かん》に、いい形をして見せる時には、あいにく見物というものは無いものであって、人に見られ、喝采され、雷同され、賞讃されるところの大部分には物の屑が多い。
そんなことは、どうでもよい、米友は久しぶりでいい形を見せようがために、こういう芸当を演じているような芝居気の微塵《みじん》もあるべき男でないことはよくわかっている。全く彼はこの場合、一生懸命、文字通りに生命そのものを一本の杖槍にかけて、眼を注ぐところは、向う岸に水の如く澄み切った、ただ単に右に携えていた刀を、左に持ち替えただけの新来の客でなければなりません。
つまり、向う岸に呼びかけた新来の客が、ただ単に刀を、それも鞘《さや》ぐるみ手から手へ持ち替えたというだけの動静が、米友を圧迫して、こうも無二無三なる形にしてしまいました。
五十一
都合のよいことには、今夜は月が皓々《こうこう》として蟻の這《は》うまで見えるような良夜でありましたのみならず、僅か三、四、五間とは隔っていないところの向う岸の澄まし返った人が、身になんらの覆いというものをつけていないことでした。
身に覆いをつけていないといったところで、決して裸体であるという意味ではありません。尋常の袷《あわせ》を着流しにしてい
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