実は、聞き耳を立てるほどのことはなく、さいぜんから亮々《りょうりょう》として満野に響いていた音声なのですけれども、あまりに亮々たるために、かえって二人の耳に入らなかったのか、そうでなければ、首を洗うことの興味と難渋で、二人にはその音が耳に入らなかったのでしょうが、今そう言われてみると、はじめて、亮々として、藪《やぶ》にも、畠にも、叢《くさむら》にも、虫の声にも、いささ黒血川の流れのせせらぎにも、和して聞ゆる一曲の管声が、今も宛転《えんてん》として満野のうちに流れているのです。
「ああそうでした、あの尺八の音のするあたりがちょうど、不破の関に当りましょう」
「関山月《かんざんげつ》を吹いていますね」
「はい……」
 お銀様は、その返答だけが手持無沙汰なものになりました。前に地の理を問われた時のように明快にいかなかったのは、「関山月」と言われて、ちょっと知識負け、或いは度胸負けがしたのかもしれません。
 それにも拘らず、ものを尋ねた向う岸の人は、まだお銀様から指示された通りに、また関山月の吹き示す通りにもその足を進めようとしないで、空しく黒血川の向う岸に立ち尽して、そうして、無心にこの流れ来《きた》る笛にのみ耳を傾けようとしているものの如くであります。
 こうなると、三人三様に沈黙せざるを得ませんでした。向う岸の人は、前の如く一曲に聞き惚れて沈黙する。お銀様は、関山月|云々《うんぬん》と言ったのがひっかかりで沈黙する。宇治山田の米友は、そのいずれなるに拘らず、髑髏についた泥のもう少し手軽く落つべくして落ちないのに中《ちゅう》ッ腹《ぱら》で、ゴシゴシと洗っている。
 右のうち、お銀様の不平を、なおくわしく言うと、向う岸に立つ人が、自分たちが今まで耳中に置かなかった一管の音を、早くも耳に留めて、これに就いて問うことをすると共に、その吹き鳴らす曲を鮮やかに関山月と聞き分けてしまったそれを歯痒《はがゆ》く思っているのです。お銀様という人は、なかなか管絃の古曲を聞き分ける耳は持っているのです。それだのに、その遠音を聞いて、直ちに関山月……と断定するほどの音楽の知識をこの際持ち合わせていなかったことが、軽蔑でもされたように自分の心を依怙地《いこじ》なものに固めてしまいました――それで、無性に沈黙していたのですが、沈黙すればするほど、その一管の音は、いよいよ鮮やかに、この場へ流れ渡って来るのを、耳を蔽《おお》うほかには遮る由がないのであります。
 ああ、お銀様は相当に管絃のたしなみがあり、尺八も相当に聞きこなす耳があるけれども、まだ関山月という曲を知らない。

         五十

 不破の古関の跡を守る関守に、心憎いのがあって、人の知らざる曲を吹く。吹いて酣《たけな》わなるに至れば至るほどわからない。悲愴《ひそう》に人の腸《はらわた》を断つの声ではあるが、どこまで行ってもお銀様としてはそれに名づくべき名を知らない曲であるのに、向う岸の人は、もはやとうにこれを了して、命じて「関山月」と言った。お銀様はこのことに憤りを発して、含むところある沈黙の凝立を守っていると、そのいずれにも頓着なく、黒血川に浸っていたところの髑髏が、不意に米友の手から離れて、月の天上に向いて舞い上りました。
 さては、百年埋れたりといえども、苟《いやしく》も一方の名将の遺骨、それが今宵、匹夫下郎の手によって洗滌の名の下に冒涜《ぼうとく》を蒙《こうむ》っていることの恨みから、骨《こつ》に精が残って天に向って飛び去ろうとしたのか、そのことはわからないが、執心《しゅうしん》に洗いつつあった米友の手をはなれて、しかもこれが尋常に取外したとか、取落したとかいうほどのものでなく、犀《さい》が月を弄《もてあそ》んで水が天上に走るような勢いで、宙に向って飛んだのだから、憤りを含んだ沈黙のお銀様でも驚かないわけにはゆきません。
「どうしたの」
 米友は、その時に必死の勢いでした。髑髏の精があって、天上に逃れようとしたわけでもなければ、匹夫下郎に辱められたことを憤ったわけでもなく、まして匹夫下郎もなお自分の留魂を慰めてくれる殊勝さを感激したわけでもなく、飛ぶには飛ぶべき理由あって飛んだには相違ないが、あえて自力更生の力で飛んだわけではない。実はその持主が烈しくそれを投げ出したものだから、その勢いだけで枯骨が躍って天上に舞い上っただけのものです。
 然《しか》らば、持主は何故に、今まで洗滌を試みていた枯骨に対して、こんな急激な取扱いを試むるに至ったか。今の先まで、口小言を言いながらも、極めて熱心忠実に洗濯をしていたものが、いくら短気だとはいえ、癇癪《かんしゃく》まぎれにおっぽり出して、それで命ぜられて、或いは頼まれて引受けた約束を無茶にすることほど、米友の短気は没義道《もぎどう》な短気では
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