「お前という人も、つまらねえ悪戯《いたずら》をしたもんだ――人間の骨を掘り出すなんて、てえげえ手癖の悪い餓鬼でも、それほどな悪戯はしねえ」
「いいのよ、これはわたしに縁のある人の骨《こつ》だから」
「お前に縁のある人って――こんなところに親類があるわけじゃあるめえ」
「ええ」
「よしんば、親類があったからといって、いったん墓に埋めた人間の骨を掘り出すなんて、そりゃあんまり乱暴過ぎる」
「友さんにはわかるまいが、これは、わたしが掘り出して上げるのが、かえって功徳《くどく》じゃなかろうかと思う人なのよ、ですから友さんの手で、この土まみれになったお骨を綺麗《きれい》に洗って上げてください、そうすれば、友さんの功徳にもなる」
「おいらは、そんな功徳はしたくねえ」
「そんなこと言わないで、素直に、この黒血川の流れで、三百年の土のよごれを洗い清めてあげてください。これはね、大谷刑部少輔という人の首なのよ」
「大谷刑部少輔?」
「そんな大きな声を出さなくてもようござんすよ、関ヶ原の時に、石田を助けた日本一の器量人の首だから、わたしもわざわざここまで来て掘り出して上げたのだから、友さんも嬉しがってこれをお洗いなさい」
「おいらあ、嬉しくねえ」
「何でもいいから洗ってあげてください、できなければ無理には頼みません、名将の供養になることだから、わたしが洗います」
「できねえと言やしねえよ、嬉しかあねえと言ったんだ」
「できないことでなければ、やって下さい、この黒血川の水で、幾百年|埋《うず》もれた英魂の泥を、友さんの手で洗って上げてください」
「うむ――なんだか理窟はよくわからねえが、頼まれたことをいやとは言わねえよ」
 米友は捨鉢のようにこう言って、杖を下に置くや、お銀様の捧げた髑髏《されこうべ》を引ったくるように受取って、それをいわゆる黒血川の小流れに浸して、ぐんぐん洗い立てようとする。
「あんまり手荒なことをしないように。落ちなければ、この川べりの砂の軟らかいところを取って磨砂《みがきずな》にして、洗ってあげてください」
 お銀様は立って、米友の洗濯ぶりを監視するような形で見詰めている。その肩を昼のような月が辷《すべ》って、黒血川の水にささやかな金波銀波を流しています。

         四十九

 命ぜられた通りに、宇治山田の米友は、与えられた髑髏をゴシゴシと洗濯しているが、なるほど、数百年来英魂を埋めた泥と見えて、米友の精根を以てしても、なかなか落ちないのであります。
「明礬《みょうばん》の水ででも洗ったらどうだか、只じゃなかなか落ちねえや」
 黒血川の水を以て洗うのだから、落ちないのが当然かも知れないが、それでも米友は倦《う》まず洗いつづけていると、
「少々ものを尋ねとうござるが――」
 尾花苅萱《おばなかるかや》の中を押しわけて来た人の声、それはかなり遠いところから呼びかけたようでもあるし、つい鼻のさきで呼びかけたようでもある。
「うむ――」
 米友は髑髏を洗う手を休めないで、声のした方を振仰ぐと、二間とはない川幅のつい向う岸に人が一人立っている。
「関の藤川というのへ参るには、どう参ったらよろしかろう」
「関の藤川でございますか……」
 それを引取って答えたのは、米友の後ろにいて首洗いの検査役をつとめていたお銀様の声でありました。
「関の藤川から、不破の古関の跡を尋ねたいのだが……」
「それでしたらば」
 お銀様が委細引取ってくれるから、米友は安心です。そうでなくて、斯様《かよう》な返答を自分が引受けねばならないことになると、米友としては苦境に立たなければならない。
 それは、この流れが黒血川の流れだということも、お銀様の口から初めて聞いて知ったくらいだから、関の藤川だの、不破の古関の跡だのというものを、不意に尋ねられて、米友に明答ができるはずがないからです。幸いに、お銀様というものがあって、知らざるところを、知れる人よりも周到に教えることのできる知識を備えている。
 そこでお銀様は、立ってその人のために、黒血川と関の藤川と混同し易《やす》くて別物であること、だが、その相距《あいへだ》たることは、さまで遠いものでないことが、混同され易い理由であること――関の藤川の名が徒《いたず》らに高くして、その実物は、この黒血川と相譲らないほどの小流れに過ぎないこと、それへ出る道と、藤川の土橋の下からその真上は、もう古《いにし》えの不破の関の跡になっているはずだということを明瞭に教えてやるのです。
 それを逐一《ちくいち》耳を傾けて聞き終りながら、向う岸に立って物を尋ねている人は、急いで教えられた方へは踵を向けず、
「あれは、どこから響いて来ますか、あの短笛《たんてき》の音は……」
 そう言われて、はじめてこちらの人が聞き耳を立てました。

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