も、一定の殿様の下や、お代官地に生業を営んでいないおれたち。道庵先生あたりこそ、怖いと言えば、米友にとって怖い人かも知れないが、自分は先生を尊敬し、服従もしているけれども、或る場合には大いに先生の不謹慎を責めることもあるし、その脱線を訓戒することもある――だから、一応は監督者気取りで、優越感を持ちながらおともをすることもできるというものだ。
 昼が明るくて夜が怖いということも覚えないし、物のわかった人間はわかったように扱うし、わからない奴はわからないように、乱暴な奴は乱暴なように、腕で来る奴は腕であしらっている。別段曲ったことをした覚えはねえから、おまわりさんや、刑務所が怖いとも思わねえ、どう考えてみても、天下に自分の特に念を入れて怖がるべき相手の存在はわからないようだが、ここで今、お嬢様から、「お前、あの女軽業の親方が、そんなに怖いの?」と白い歯であしらわれてみると、米友の身体《からだ》がおのずから固くなってくるのを覚えました。
 怖い――というのはなんだか業腹《ごうはら》だが、そうかといって、ちっとも怖かあねえ、あんな女軽業の親方なんかあ……と、うっかり口を辷《すべ》らしてしまって、それがあの親方の耳にでも入ろうものなら、この野郎、もう一言いってみな――とのしかかって、頭ごなしにやられる時を想像すると、米友が変な心持になってしまいました。
 しかし、お銀様は、それを米友に追究するつもりで言ったのではありません。やがて、冷淡ではなく、冷静に、むしろ物を頼むように米友に向って言いました。
「友さん、わたしのことは、わたしとして間違いのないことをするのだから、心配しなくてもいいよ、親方がお前に何とか言ったら、わたしが申しわけをしてあげる、そんなことは心配しなくてもいいけれど、ここで友さんに、素直にわたしの言うことを聞いてもらいたい」
 米友は、お角さんを怖れるように、お銀様を怖れてはいないのです。怖がるよりはむしろどういうものか、一味の同情と、親愛というようなものを感じているのです。
 お角さんが腫物《はれもの》に触るように怖れているこの令嬢か悪嬢か知れない難物に向って、米友は少しも窮屈も威圧も感じていないのみならず――何というか、米友自身では名状のできない哀れな感情が働いていて、おたがいにそぐわない会話をしながらも、魂のどこかとけ合って行くような親しみを加えて行くのは、お銀様も知らないし、米友も知らないながら、おたがいに好きだというような感情があらわれて行くのです。好きといったところで、惚れたの腫れたのというわけではないが、おたがいにどうしても衷心《ちゅうしん》から憎み合えないような何物かがあることを、おたがいに気がつきません。
 そこで、米友はこうして取押えに来たようなものの、手荒くどうしてもこうしても拉《らっ》して行こうとはせず、お銀様もまた、米友に向って物を頼めば聞いてくれないはずはないといった、安らかな気分で、すらすらと前方へ向って歩いて行くのです。

         四十八

 暫くして、お銀様は一つの小流れの岸に下り立ちました。
 米友も、それに従って、同じ河岸に数歩を離れて立っていると、お銀様は、岸の傍らに一むら茂き尾花苅萱《おばなかるかや》の中に分け入ったかと見ると、無雑作《むぞうさ》にその中から一つの白い円形な物体を取り出して、米友の眼の前に捧げたものですから、米友がまたもその眼を円くして見ると、夜目ながらはっきりと眼底に映り来《きた》るところのものは、まさに人間の一箇の髑髏《されこうべ》でありました。
「友さん――この髑髏を、この川でよく洗って頂戴」
「うむ――」
「この川は黒血川《くろちがわ》という川なのです、昔、大友の皇子と天武の帝の戦《いくさ》のあったことから、黒血川の名が起ったそうですが、それは名前だけで、そのことは千年も昔のことですから、今は血なんぞは流れていやあしません、この通り、鏡のようにきれいな水なんですから、これでよく洗って頂戴」
「うむ――」
 米友は、唸《うな》りました、病とはいえ好奇《ものずき》にも程のあったものだが、今まで隠し持っていたとも思われない人間の骨《こつ》を、どうしてここへ持ち出したか、尾花苅萱の中を探って、易々《やすやす》とこれを取り出したようだが、いくら黒血川の岸の尾花苅萱だとて、手品師のようにかねて仕掛けて置かない限り、そう易々と人間の髑髏を探し出せるものではない。
「友さん、そんなに眼を円くして、驚いてばかりいてもおかしいじゃありませんか、これは怖いものではありません、生きているわけではないから、口をあいて食いつきはしませんよ」
「お嬢さん、お前、どこからこんなものを持って来た」
「これは、さっきわたしの手で掘り出して、この尾花苅萱の中へそっと隠して置きました」
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