をしちゃいけねえ」
「いいのよ」
「よかあねえ」
 米友は少しくどもって、
「そうお前、子供じゃあるめえし、いい年をしてよる夜中、出歩いちゃ困るじゃねえか、親方が焦《じれ》ったがるのは無理ぁねえな。ちぇっ、どうしてそう、みんな人にばっかり世話を焼かせたがるんだろうなあ」
と、米友が口惜《くや》しがりました。事実、米友をして世話を焼かせるのは、今晩のお銀様にばっかり限ったものではない、もっといい年をしながら、世話を焼かせることを本業に心得ている道庵という親爺の如きもある。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
とお銀様は笑いました。
「誰も世話を焼かせようとはしていないのに、勝手に世話を焼きたがるからおかしいじゃない?」
「勝手に世話を焼きたがる奴があるものか、お前にしろ、道庵先生にしろだね、ほんとうにこのくらい人に世話を焼かせりゃ話はねえやさ、まるで眼がはなせねえんだからな、人がちょっとでも眼をはなしてみようもんなら、どこへ飛び出して、何をするかわからねえ」
「大丈夫」
「当人だけは大丈夫だって、ひとはそうはいかねえよ、よる夜中、こんな淋しいところをひとり飛び歩いてみな、どういう奴が出て、どういう目に逢わせられるか知れたものじゃねえぜ、おいらなんぞは、槍が出来るからいいようなものの……」
 米友は、ここで自分の槍の出来るのを自慢で言うつもりはない。いささかでも腕に覚えのあるものならまあいいとして、それでも慎まなければならないのに、何の防備も手段も持ち合わせない女性の身の、ひとり歩きの危険を警告した親切の意味が充分に籠《こも》っているのですが、それをお銀様は軽くあしらって、
「心得ていたって怪我をする時は怪我をします、怪我をしない時は怪我をしません、それに……わたしなんぞに、誰も怪我をさせようなんて心がけているものは一人もありませんからね、怪我の方が逃げて行ってしまいますよ」
「ちぇッ――聞いて呆《あき》れちまあな、怪我の方で逃げて行くなんてやつがあるものか、いまに大怪我をしてみなせえ、そのとき思い知っては遅いぜ」
「怪我――といったところで、死ぬより大きな怪我はありますまい」
「ちぇッ――お前という子も、よくよく理窟屋だなあ」
「理窟じゃありません、物の道理よ」
「おいらが迎えに来たんだから帰ってくんな、お前を連れて帰らねえと、また、おいらが親方から大目玉を食うんだからな」
「親方というのは誰のこと?」
「お前、知ってるだろう、両国の女軽業《おんなかるわざ》の親方のお角さんのことさ」
「あの人が、お前、怖《こわ》いの?」
「怖い――?」
 米友は、お銀様から反問されて、思わず眼を円くして地団駄を踏みました。
 女軽業の親方のお角さんという女が、お前怖いの……とお銀様から改めて聞かれると、米友が何か知らず自分の胸にギクッと来るものがありました。
 怖いものは無いはずだ――鬼だとか、お化けなんというものは、見たという人もあるが、そんなものはこの世に無いものだという人もある。おいらはまだ、お目にかかったことがないから知らない。親爺が怖いと世間の人はよく言うけれど、おいらという人間は、親というものの味を知らねえから、甘いものか、辛いものかわからねえのだ。そのほか、地震だとか、雷だとか、火事だとかいうものは、災難だから、来ねえ前にビクビクしていたってはじまらねえやな――また或る人は言う、借金ほど怖いものは無いと。ところがおいらは怖いほどの借金をまだ持ってみたことはねえ。貧乏はもっと怖いという者があるけれど、その貧乏の味というのも、おいらはあんまり知らねえよ――と言ったところが、お君から笑われたことがある――
「友さん、お前、貧乏の味を知らないんじゃない、お前というものが貧乏そのものなのよ、夏冬一枚の着物で通して、家も無ければ、財産《しんしょう》もないんだから、まあ、友さんぐらいの貧乏人は世間にたんとはありますまい、それだのに、貧乏の味を知らないなんて言うと笑われちゃいますよ」
 お君から米友は、こう言って笑われたことがある。なるほど、そう言われてみれば、おいらなんぞは天地間の本当の貧乏人かも知れねえ。だけれど、お君はなおその時に附け加えて言った――
「だけれども、本当の貧乏の味というものは、所帯をもって、子供が出来て困ってみなけりゃわからないというから、そうしてみると、友さんも、わたしも、貧乏とはいうけれど、まだ本当の貧乏の味というものを知らないのかも知れませんねえ」
 本当の貧乏と、ウソの貧乏というものがあるかどうか、とにかく、自分たちは、貧乏の味を知っていると、知っていないとにかかわらず、決して金持ではない、貧乏を貧乏として知らずにいるくらいだから、貧乏は決してそんな怖いものじゃないと思っている。
 地頭《じとう》が怖いの、泣く子が怖いのというけれど
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