られている人の何者であるかを知るよりは、その者が果して盗難品を持っているか、いないかということを知らんとするに急にして、仔細にこれを検視してみるというような余裕はなかったのです。
それが今、こうなってみると、幾分か研究的の心になって、如何様《いかよう》にして斬られ、いかような創《きず》が致命傷になっているか、ということを知りたい心に駆られたものでしたが、見るとこの男の致命傷というのは、たった一カ所で、しかもそれは頭部から顔面にかけて横なぐりに一つなぐっただけの傷であります。横擲《よこなぐ》りに擲った切先が少し残ったものですから、ホンの甘皮ばかり、そのほかは西瓜《すいか》を輪切りに切り損ねたのが斜めにパックリ口があいたようなものです。
そのほかには一指を加えたほどのあともなく、無論、斬捨てて止めを刺してなんぞはありません。
徳川の初期に於ては、西瓜を食うことをいやがったものであります。西瓜は由井正雪の頭だ! と言って、その二つに割られた中身の鮮紅色なるを、この上もなく不祥の色として忌《い》み怖れた時代もあったのであります。
同じく人を斬捨てるにも斬捨てようがあると、美少年は思案に暮れた時に、はじめて自分の手が、かなりの血痕に汚れていることに気がつき、この手を洗わなければならぬと思いました。
美少年は、手を洗おうとして思わずあたりを見渡した時に、つい鼻のさきの産土八幡《うぶすなはちまん》の社内で、物のうごめく姿を認めました。
こういう場合ですから、手のことは忘れて、その手を握り、じっと闇を透して、そのうごめくものの形を見定めようとすると、その物影は難なくスルスルと八幡境内の闇を出て来て、この街道の真中まで走り出したものですから、その輪郭を見て取るには、おのずから与えられたような形になったものです。
それは実に、一個の少年が手槍と覚しいものを構えつつ、今し、八幡の境内の中から走り出し、何物をか追いかける姿勢であります。
猟師が鹿を追う時、鳥さしが鳥を覘《ねら》う時に、ちょうどこんな姿勢をする。前路にねらうものがあればこそ、後ろに美少年のあることを知らない。
美少年はそれを実に、以ての外の振舞だと思いました。けれどもそれは自分というものの存在をここに認めて、それを避けようとして走り出したものでないから、現にここに行われた兇変に交渉のある人間とは思われない。何か別に怪しむべきものを認め得たればこそ、ここに我というものがあることを忘れて、それを追い求め行くものに相違ない。
この怪しの者の正体こそ、宇治山田の米友であると知ってしまえば何のことはないのですが、それをわきまえぬ美少年にとっては、この際、合点《がてん》のゆかぬ至極の人影である。良不良に拘らず、それをつき留めることは応変の仕事でなければならない。一方、その小さき人影に向って追い行くと、それを感づいたか、感づかぬか――こちらが追えば彼も走り、彼が走ることによって、こちらが追えば彼の転身は一層鮮かなものですから、美少年はちょっと、人か怪獣かの区別さえつきかねる気持になりました。
それだけに、興味も異常に集中して、ともかくもこれをひとつ手捕りにして置いてその上――と、彼は全能力をつくして驀進《ばくしん》しようとした時に、その行手にはたと立ち塞がったものがあります。
それは、ちょうど、深山を旅するものが、ももんがあ[#「ももんがあ」に傍点]と呼ぶ動物のために、眼も、鼻も、口も、抱きすくめられてしまうような呼吸で、かの小さき怪しいものと、我との間に立ち塞がったけれども、ももんがあ[#「ももんがあ」に傍点]ではありません。
「いけません、あれはああして置きなさい、あなたの知ったことではありません」
彼と我との間に割って入り、ももんがあ[#「ももんがあ」に傍点]のように少年を抱きすくめてしまって、こう言い聞かせるその人は不思議にも女の声、説明してしまえばお銀様その人の声でありました。
その時、街道筋がにわかに物騒がしく、提灯《ちょうちん》をかざした多数の人がこちらへ向いて走り来るのは、まさしく先刻の風流人たちの報告によって、宿場の係りの人たちが出動して来たものに相違ありません。
四十七
変事を聞きつけて集まり来《きた》った宿役その他の連中に、この場の事と人とをうち任せたお銀様は、いつのまにか、松尾村への草むらの中をひとり歩いていました。
「お嬢様――お前《めえ》という子も、人に世話を焼かせる子だなあ」
林の中から弾丸黒子《だんがんぼくろ》のように躍《おど》り出したそれは、宇治山田の米友であります。
米友は、右の手に例の杖槍を担いで、左の手で早くもお銀様の帯をとらえたものです。
「友さん」
「うむ――お嬢様、お前、女のくせにそうひとりで夜歩き
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