ところが、紐《ひも》で括《くく》った養老酒の一樽を前に置いて、つくづくとそればっかりを眺めていた旅の奴が、
「美濃の養老酒――親孝行の本場仕込み、悪くねえなあ。およそ物は品によりけりで、牛が水を飲めば乳となり、蛇が水を飲めば毒となるとはよく言ったもんだ。この養老酒だって、源長内てな息子さんに持たせれば、水が酒となる、がん[#「がん」に傍点]ちゃんなんぞにこうして持たせた日には……いやはや、及ぶべからず」
と言って、ニヤニヤと徳利を見ながら思出し笑いをはじめたが、何を、そんな思出し笑いにうつつを抜かしているような、お目出たいのではないといった形で、すっくと立ち上るや、もはやかなりに休養の時を与えたその片腕で、やにわに養老の美酒をひっさげ、さっさと近江路へ向って影を没してしまったのは、単にこれだけの台詞《せりふ》を言わんがために、この場面に出たもののようです。
 これが引込むと間もなく、西の方から、怪しげな河童《かっぱ》が一箇《ひとつ》、ふらりふらりと乗込んで来て、これは正銘の妙応寺の門に向って、異様の叫び声を立てました。
「イルカ、イルカ」
 この者の姿を見ると、頭はがっそうで、まさに河童に類しているが、身に黒の法衣のかけらと覚しいものを纏《まと》うているところ、寒山拾得《かんざんじっとく》の出来損いと見られないこともない。
「イルカ、イルカ」
 河童が海豚《いるか》を呼んでいる。
「イル、イル」
 門内|遥《はる》かに相応ずる声がしたが、鋪石《しきいし》をカランコロンと金剛を引きずる音がする。
「天狗小僧――来たか」
「来ている――筍《たけのこ》八段も来ている」
 門の内と外とで応答する。
 まもなく小門のくぐりがあいて、そこから首を出したのは、同じような河童姿、法衣のかけらで、寒山拾得の出来損いが、まさに二人揃ったものです。
 海豚《いるか》が門内から出て来る、河童が門外でこれを迎える、さて、二人はここで相携えて、どこへ、何しに行く? と見れば、二人は門を左にした鋪石のところへ来ると、差向って石に腰を下ろしてしまったが、と見れば、もう二人ともに、黒白の小石を手に持っている。そうして、丁々として盤面に石を下ろしはじめている。ここに盤面というのは、門脚の一方の親石の花崗石面に碁盤目を画したもので、河童と海豚とは、これに対して黒白を争いはじめているのです。イルカと言い、河童と言い、天狗小僧と言い、筍八段というのは自称他称が混乱していて、どれをどれとも分らないが、この二人のもの、黒白を持たせてはたしかに人間業とは思われないひらめきを見せる。
 かれ一石、これ一石と下ろしながら、人間界の碁打ちをコキ下ろしている罵詈讒謗《ばりざんぼう》を聞いていると、なかなか面白い。伝うるところによると、近来、武州八王子あたりから天狗小僧なるものが出現して、遠く美濃尾張あたりまでの聯珠界を風靡《ふうび》しているということだが、それだ!
 とにかく、この出来損いの寒山拾得の悠々閑々たる聯珠、眼中人なき天狗心のために、妙応寺門前の今晩の魔気が払われてしまいました。
 魔気が払われてしまっては、幽霊の出現の場所がない。
 とはいえ、引込みのつかぬようなことはあるまい。例えば寺門の前はこうして天狗小僧と、海豚童子のために塞がれてしまったとしたところが、遊魂は必ずしも山門の中に済度されてしまわなければならぬはずはないので、道は到るところになければならない。
 妙応寺の裏山を、ほとんど真一文字に岩倉の方へ抜けると、そこはやがて、れっきとした北国街道が横たわっているし、ちょっと左へとれば大野木から、江州長浜方面へ一辷《ひとすべ》りという道にも通ずるはず、ぜひこの東海道をとって、どっちかへ形をつけなければ動きのとれないという約束はないはず。
 事件もまた、このところ、道筋と同じように、前後が少々ややこしくはなっているけれども、もうこの時分は完全に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎と、その携えた養老の美酒とは、寝物語の里に届いている。お蘭殿はいい気持で、もぬけの殻に向ってエロキューションを試みて、試み疲れてうとうとして、つい寝過ごし、枕一つを抱えて国越え――という時刻になっているに相違ない。

         四十四

 これよりさき、二人の風流客は、小笹篠原を探し分けて、ほとんど道なき方へ進んで行きました。
 この二人というのは、生国郷関のほどはわからないが、来ることは今晩、確かに西の方から来て、寝物語の里で一夜の思い出を楽しもうとしたが、それが意外にも先客に占められて、泊りはぐれて、不破《ふわ》の関まで伸《の》して一段の風流を試みようと出かけた二人の者であるが、その行先を見ると、不破の古関ではない、かえってその小関の方へ向って、小笹篠原を押し分け押
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