一つを抱えて、障子一重を引きあけ、小溝を一つ飛び越しさえすれば済む。
たまらなくなったお蘭どのは、むっくりはね起きて、右の通りに国越えをしてしまおうとすると、月は天に皓々《こうこう》として、廂《ひさし》を洩れて美濃と近江の境をくっきりと隈《くま》どっているが、月なんぞはどうでもよい。
「ハックショ、ほんとにばかばかしい、何が寝物語だ」
こう言って、近江の国の障子を引きあけて、なれなれしく近江の国へ夜込乱入《よごみらんにゅう》をかけ、
「いやに暗いじゃありませんか」
燈心を掻《か》きたててやって、さて、寝かしつけて置いた相手の枕許を見ると、
「おや?」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
そこで吹き出すのをこらえながら、パッカリ眼をあいて見せたのは、宵の口に寝かしつけて置いて国越しに口説《くど》いたその人とは似ても似つかぬ――男には相違ないが、裏も表も全く違っている――のが、なれなれしくも、図々しくも、
「お蘭さん――待ってましたよ」
「まあ、お前は、どこの人?」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]の百でござんすよ……」
御当人はニヤニヤと笑って、したり顔に名乗っているが、お蘭どのの方では、まだ、がんりき[#「がんりき」に傍点]なんて、そんな名を聞いたことはなし、まして、こんなやくざ野郎の面《かお》を見知っているはずもない。
四十三
これよりさき、妙応寺坂の門前で、一つの遊魂の彷徨《さまよ》うのを見たという風流客の一人は、まさにそれを信じきっていたが、他の一人は半信半疑でありましたが、二人の者が同時に風流以外の寒さを感じて、肌《はだえ》に粟《ぞく》しながらその場を足早に下り去ったというのは、理由なきことではありませんでした。
これら両人は、暗鬼を生むところの疑心を持たぬ風流人であった。その風流人の風流心を曇らすところの現象が存在して蹌《うご》いたことはたしかに事実で、その証拠には、彼等が関の藤川へ向って足早に歩み去るついそのあとに、やはり妙応寺の門側から、かすかに影を現わしたそれが、それです。
最初の一人が見た目に、多くの誤りは無かったのです。それは、覆面したいでたちに、両刀を携えた姿には相違なかったが、月明に木履《ぼくり》の音を響かせて濶歩して行くというわけでもなく、着流しの白衣《びゃくえ》の裾から、よく見ると足の存在をさえ疑うほどの歩みぶり。二人が立去ると間もなく、これは蹌々踉々《そうそうろうろう》として妙応寺坂を東へ、同じく関の藤川の方へと彷徨《さまよ》い行かんとするものらしい。
だが、これは遊魂ではない、さいぜん、寝物語の里を、近江の国に属する宿から彷徨い出でた机竜之助の、いつものそぞろ心がさせる業なのです。
二人の風流人をやり過しておいて、寝物語を美濃尾張路へと逆戻りをする人の当りをつけた目的地といっては、別に無いと見るのが本当でしょう。今宵は杖をついていないで、小なる刀の方は差したまま、大なる刀は手に持って歩いているようです。
この遊魂が、しばし妙応寺の門の内外に彳《たたず》んでいたのは、少なくとも右の二人の風流客が寝物語の里で失望し、その失望の結果がもう一段の風流を生んで、不破の古関へと伸そうと心をふり向けさせた、その以前のことでなければならない。
してみれば、淫婦のお蘭さんなるものは、いい気で宿を換えて、おのろけを伺《うかが》うの、伺わないのと盛んに管《くだ》を巻きつつある最中に、遊魂はもはや、近江の国分の宿の蒲団をもぬけの殻にしてしまったに相違ない。お蘭さんなるものは、そのもぬけの殻に向って、しきりにエロキューションの挑発を試みていらっしゃったに相違ない。
かくして雲間から出た三日月のように、この遊魂は、二人の風流客をやり過して、やや暫しの後に門の前にちょっと姿を現わしたものでしたが、あいにく、こましゃくれた雲めがまた一つ、東の方から掠《かす》めて通りかかったために、僅かに片影を見せた三日月がまた形を隠してしまいました。
関の藤川の小橋の上で、二人の風流客をちょっと驚かせた、いやにお世辞のいい一人旅の男――足の早い、飛脚にしては酒樽を持ち過ぎているところの、若い一人旅の男が、さっとこの門前まで来かかって、
「やれやれ、別段、疲れたってわけでもねえが、この徳利が荷になるのでなあ」
と、片手にさげた美濃の養老酒の徳利を、門前の御影石の畳の上に置いて、自分は同じ石の橋の欄《てすり》へ腰をかけて一休みしている。
なるほど、特に疲れたというわけでもなし、重いというほどの荷物でもないが、こいつは、利腕《ききうで》にも利かない腕にも一本しかないから、思いがけなく持たせられたこの一物が、相当に荷厄介にはなるらしい。それでいったん地上に置いて、少々その手に休養を与えようという段取りであるらしい
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