しかに実際を見たというのに、一人はどうしてもそれを幻影としか受取れない心持――たしかに実際を見たという当人も、それ自身どうも覚束《おぼつか》ない心持――
「ははあ、あれがまさに遊魂というものではござるまいか」
「遊魂……」
「ところは寺院の門前であり、見た目の姿がうつつか、まぼろしか、見た当人をこうも迷わしている。そこで遊魂のたぐいではござるまいか」
「なるほど……」
一方も深く感激したもののよう。
「東海道の小夜《さよ》の中山では、はらみ子の母の遊魂が、夜な夜な飴《あめ》を買いに出たという、それが思い出される。ただし、いま現にやつがれが見たのは、遊魂にしてはいかめしい」
「両刀を帯びて、覆面をして、白衣をつけて――ああ、古関の夜に彷徨《さまよ》う遊魂……我々の風流も、なんとなく肌寒いものになりました、急ぎましょう」
「急ぎましょう」
ここで両人が、ぞっとして寒い思いをさせられて、片時も早くこの場を急ごうという気になったのは風流の故ではありません。
なんとなく、今の遊魂の迫真味が、身の毛をよだてるものとなったに相違ない。
こうして二人の風流客が、まもなく関の藤川の橋を渡りかけた時分に、
「今晩は、いい月夜でございますねえ、寝物語からおいでになりましたか、へ、へ、御風流なことで……お大事においでなさいまし」
通りすがりに、イヤに丁寧なお世辞を二人の風流客に送って、行き違う旅人がありました。
「やあ――」
と言ったままこの二人の風流客は、イヤにお世辞のいい一人旅の男を後ろへやり過しておいて、何となしにその後ろ姿を見送って、
「なんとまあ、足の早い旅人ではござらぬか」
「左様……挨拶は歯切れのいい江戸弁でござったようだが、今ごろ一人旅は、飛脚でござろうかな」
「飛脚……それにしては、酒樽を一つ携帯していたようでござったが」
「美濃の養老酒でござろうがな」
二人はこうして、おもむろに関の藤川の小橋を渡りきると、もう、ついそこがめざすところの不破の古関のあとなのであります。
四十二
僅か一里の道を――この良夜の風流客といえども、外を行く時は寒い思いもさせられたり、あらぬ幻影も見たり、いやにていねいな旅人にも出くわしたりするが、うちにいると相変らず、お蘭どのは、その脂《あぶら》ぎった肉体を持扱いながら、どたどたと寝物語の寝床の上を輾転《てんてん》しているに過ぎない。そこへ、
「こんばんは、お隣りのお方から、奥様に御酒《ごしゅ》一つ上げてくれと持って参じました」
少女が塗りの剥げた膳の上に徳利を一本つけて持って来たのが、さすがのイカモノのどてっ[#「どてっ」に傍点]腹をえぐりました。
「近江のお方が……まあ、なんて心憎い行き方でしょうね、こちらでいくら持ちかけても、いっこう御挨拶もなさらないくせに、搦《から》め手から御酒一つなんて……憎いわねえ」
横に向いて寝ていたお蘭は、うっぷしに寝そべって、眼の前に置かれた御酒と肴《さかな》を細い目でながめると、
「お酌しましょう、奥様」
「済まないね」
うっぷしに寝たまんまで、お蘭さんは杯《さかずき》をうけにかかりました。
「寝物語の本場なんだから、ワザとこうしたままいただくのよ、ねえさん、若い人はこんなだらし[#「だらし」に傍点]のない真似《まね》なんぞをするものではありませんよ」
お蘭どのが、とうとう腹這《はらば》いながら酒を飲みはじめました。
この女はうわばみのように腹ばいながら、チビリチビリとやるうちに、いよいよいい心持になって寝物語か、管物語《くだものがたり》かわからないように舌がもつれてきます。
「おのろけ[#「おのろけ」に傍点]をたっぷりお聞かせ下さらなけりゃならないのに、そちらでお聞かせ下さらないとすれば、こちらから押しかけあそばしますてんだ――一年《ひととせ》、宇治の蛍狩り――こがれ初《そ》めたる恋人と語ろう間さえ夏の夜の――とおいでなさる……チチンツンツン」
ところへ、銚子のお代りが来る。この酒が地酒だとばかり思っていたら、思いのほか口当りがいい。お蘭どの、生一本の自己陶酔に気ちがい水が手伝ったものですから、
「俊徳様の御事が、ほんに寝た間も忘られず……チチンツンツン」
手がつけられなくなって――
わたし、上方《かみがた》へ行ったら、ひとつ本場の役者買いがしてみたいわ。わたしは嵐吉《あらきち》が贔屓《ひいき》なんだけれど、もっと渋いところとも一晩遊んでみたいわ。でも、役者は一口物で、ちょっと口直しにはいいかもしれないが、長くつき合うとおくびに出るかも知れないねえ。お坊さんにも、今時はなかなか色師がいるんですってねえ。和尚さま、あれさ仏が睨みます、なんて言わせる坊主も罪が深いわねえ。地色《じいろ》はあぶないねえ。だからやっぱり楽しむ
前へ
次へ
全110ページ中50ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング