せんくち》のお客があって、寝物語の座敷が約束済とのことでがっかりいたしました」
「是非に及びません、関ヶ原まで伸《の》そうではございませんか、荒れてなかなかやさしきは、不破の関屋の板廂《いたびさし》――この通りいいお月夜でございますから、かえって、この良夜を寝物語に明かそうより、明月や藪《やぶ》も畠も不破の関――といった風流に恵まれようではございませんか」
「それは一段でございます。では、これより不破の関を目指して、宿りを急ぐことといたしましょう」
「まだ宵の口でございますから、あえて急ぐ必要もございますまい、関ヶ原までは僅か一里の道、それもこの良夜を、得手《えて》に帆を揚げたような下り坂でございますから」
 こう言って、夜道を緩々《ゆるゆる》と東の方へ立去る両箇《ふたり》の旅人があるのを以て見れば、外は、やっぱり誂向《あつらえむ》きのいい月夜に相違ない。
 この声高《こわだか》な、表街道の風流人の会話に、しばし聞き耳を立てていた美濃の女が、それより、月ともほととぎすとも言うもののないのに業《ごう》を煮やし、
「ようよう、あなた、焦《じれ》ったいわねえ、今晩は天下の寝物語を二人だけで借りっきりなのよ、誰に憚《はばか》ることはないから、おのろけを、たっぷり伺いましょう、夜の明けるまで……ようよう、焦ったいわねえ、白状なさいよう」

         四十一

 柏原の駅で泊るべき予定を、わざわざこの良夜のために、寝物語の里まで伸《の》して、そこで風流を気取ろうとして来てみた、二人の被布《ひふ》を着た風流客は、意外にも、たのみきって来た風流寝物語の里はあだし先客に占められてしまった溢《あぶ》れの身を、せん方なく、もう一里伸して不破の古関で月を眺めることによって、一段の風流を加えようという気になって、得手に帆を揚げるような下り坂の道を、車返しでも踵《きびす》をめぐらすことをせず、悠々として月の夜道をたどりました。
 この二人は、どうやら俳諧師といったような風流人であるらしいが、それは二人ともに被布を着ているから、それで俳諧師という見立てではなく、また俳諧によって点取り生活をしている営業の人という意味でもなく、正風《しょうふう》とか、檀林《だんりん》とかいうまでもなく、一種の俳諧味を多量に持った道づれの旅人と見ればそれでよろしい。
「あれが胆吹山《いぶきやま》でげしょう、胆吹山でないまでも、胆吹の山つづきには相違ござるまいテ」
「してみると、こちら、それが例の金吾中納言の松尾山……」
「これを松尾山と見れば、あれとつながる雲煙の間《かん》のが、たしかに毛利の南宮山《なんぐうざん》でなければなるまいものじゃテ」
 悠々閑々《ゆうゆうかんかん》たる月の夜道で、二人は行手の山の品さだめをしました。
 彼等はほぼ歴史上の知識が教えるところによって、山を断定しているものに過ぎないので、まだこの関路《せきじ》の峡《かい》では、胆吹も、松尾も、南宮山も見えないと見るが正しい、しかし、それらの山の方角を指し、裳《もすそ》をとらえたと見れば、当らずといえども遠からぬものがある。
 二人がめざす不破の古関のところまでは、ホンの一息のところまで来ている。
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秋風や藪《やぶ》も畠も不破の関
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 一人が口ずさんで杖をとどめた時に、もう一人が、
「おや……」
「これは例の妙応寺でござろう、青坂山、曹洞宗、西美濃の惣録《そうろく》――開山は道元禅師の二世莪山和尚。今須の城主長江八郎左衛門重景の母、菩提《ぼだい》のために建立《こんりゅう》――今、伏見の宮の御祈願所」
 もう一人の風流人が、左の方に、とある大寺の門をのぞんで、「おや……」と不審がって杖をとどめた一方の同行に向って註釈を試むると、杖をとどめたのが、身の毛をよだてて首を左右に振り、
「そのことではござらぬ、たった今、この門前に彷徨《さまよ》うていた物影が見えない」
「はて」
「白衣《びゃくえ》を着て、たしかに大小刀を帯して、面《おもて》は覆面していたが、もうその姿が見えぬ」
「はて」
 とどめた杖が震え、その杖によって支えられた足が戦慄《おのの》いているらしい。
「拙者はそれを見なかった」
 一方のが言う。
「たしかに……この目の幻ではござらぬぞ、たしかにその物の影が……但しそれがこの門から出たものか、この内を入ろうとして来たものか、それを見定める瞬間に、その姿が消えてしまいました」
「はて」
「たしかにこの目が……現在見たこの目が僻目《ひがめ》であろうはずはござりませぬが、見届け得なんだこの目は、浮目《うきめ》でござりましたか」
「果して、左様な物影を見られたのか」
「見ました、正明に。ただその動止を突留め外したまでのこと」
「では……」
 どうも、一人がた
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