ました。
 泊るならば、わざわざこうやって、二軒にわかれて泊らずとものことだが、それを、わざわざわかれて泊ったのは、土地の来歴を知るお蘭さんという女のワザとした振舞で、同じ泊るならば一つ家へ泊るよりも、こう分れて泊って、国境で寝物語の趣味を味わってみることも一興としてしたことであるか、或いはまた、この種の女の習いで、迷信が存外深く、何ぞこのたびの旅の縁起をかついで、ためにわざわざ手分けをして泊るように仕組んでしまったものか、その辺はよくわからないが、いずれとしても、人間同士はあんまりくっつき、ひっつきしているものよりは、少し離れた方が情味があるものに相違ない。全身の豊満な肉体を露出するよりは、薄物《うすもの》を纏《まと》うた姿にかえって情調をそそられるといったような心理もないではない。
 お蘭さんの計らいで、今晩は離れて泊ってみましょうよ、国を一つ離れてね、夏だと一層ようござんしたねえ、今は寝物語の夜もすがら、杜鵑《ほととぎす》をきいて明かすというわけにもゆきませんから、虫の音でもしんみりと聞きながら――なんぞと来ると、この女も相当に憎らしい奴に相違ないが、これはそういう風流気はさて置き、一種のアブノーマルな性慾心理のさせる張りきった余技か、そうでなければ、子供にも笑われる迷信が、おのずから風流の道と一脈相通じたというまでのことでしょう。
「ねえ、あなた、近江のお方……御機嫌はいかが」
 宿をわかつと共に、お蘭は蒲団《ふとん》の上に横になって、くるりとこちらを向いて、竜之助に呼びかけました。
 てな[#「てな」に傍点]事でこの女は、無性にいい気持になっている。この女は、自分が美濃の国にいて、相手を近江の国へ置いて寝物語をするというだけの興味でいい気持になり、まだ宵の口なのに早くも夜具をしつらえ、行燈《あんどん》を細目にし、帯を解いて寝巻に着替えて、横になってクルリと向き直って、隣りの家の障子越しに呼びかけてみたものです。
 女がはしゃいでいるのに、男は返事をしないが、これも多分、同じように、宵の口を夜具の上に寝そべっていての応対に違いない。
「ねえ、あなた、乙《おつ》じゃなくって……」
といったような甘ったるいもので、女ははや蒲団の上で、なめくじのように溶け出して、手に負えない。
 さて、もうここまで来さえすれば、追うにしても、追われるにしても安心、美濃から追われれば近江へ、近江から追われれば美濃へ――
 こうして女も甘ったるいものだが、男の方もかなり甘ったるく出来ている。飛騨の国越えをして美濃の太田へ落着いた晩、この女も今晩のうちに殺してしまわなければならぬ女だ――と幾分の凄味《すごみ》を見せたはずなのに、ずるずるべったりにここまで牛に引かれて来てしまって、寝物語|云々《うんぬん》のいちゃつきにお相手をつとめている。
「ねえ、あなた、ほんとうに乙じゃありません? 寝物語の里なんて、名前からしてよく出来ていますねえ。そこで今晩は寝かしませんよ、今晩こそ、よっぴておのろけを伺《うかが》いたいもんでございますね、寝物語の里で、いびきの声なんぞは艶消しでございますからねえ、寝ようとなさっても、寝かすことじゃございませんよ」
 美濃の国の女は、こう言ってまたひとり、いちゃつき、いちゃついて、甘ったるい自己陶酔がいよいよ溶け出して来る。
 近江の人は、それに返事をしないこと以前の通りだが、「こんな晩、ほととぎすが聞きたいわ」とかなんとか、どちらかの口から一言洩れると、御両人もまだ話せるのだが、女は自己陶酔から醗酵するべちゃくちゃのほかには何の初音ももらさない。男はうんが[#「うんが」に傍点]の声を上げないで寝そべっているだけのものらしい。
「ねえ、あなた、おのろけを伺おうじゃありませんか、ちょいと、近江のお方……」
 いよいようじゃじゃけて手がつけられない。
「女殺し……」
と女が突然に言いました。無論、絶叫ではありません。
「女殺し……あなたという人は、今まで幾人の女を殺しました、さあ、今晩の寝物語に、その懺悔話《ざんげばなし》を聞こうじゃありませんか、ぜひ……白状しないと殺すよ」
 肉感的に圧迫するような声です。
「ようよう、あなた、おのろけを聞かして頂戴よ……今までの罪ほろぼしに、よう」
 両国の宿屋では、軒を隔てて、こんなもだもだの宵の口――車返しへ通ずる表街道は、こんなものではありませんでした。
 この寝物語の里の前で、ちょっと杖《つえ》をとどめた、美濃近江路を通り合せの二人の旅人が、
「よい月でございますなあ」
「ほんとうによい月でございます」
「惜しいことでした、実は柏原からわざわざ疲れた足を引きずって、この寝物語の里を名ざしてまいりましたが、今晩、ここでゆっくり寝物語を伺いたいとの風流があだになりましてな、もう現に先口《
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