もりだから、見物が済んだら、尋ねてみてくんな、またあそこいらで落合えるかも知れねえ」
こう言って、その翌朝、がんりき[#「がんりき」に傍点]ひとりは垂井を出立の、関も追分も乗りきって、近江路へ向ってしまいました。
四十
中仙道を近江から美濃へ越すところに、今須駅というのがある。
関ヶ原へ一里、柏原《かしわばら》へ一里というところ、なおくわしく言えば、江戸へ百十三里十六町、京へ二十二里六丁というほどの地点に、今須駅というのがあるのです。
不破の中山とか、伊増《います》の明神とかいって、古来相当にうたわれないところではなかったけれど、番場《ばんば》、醒《さめ》ヶ井《い》、柏原――不破の関屋は荒れ果てて、という王朝時代の優雅な駅路の数には、今須駅なんていうのは存在を認められなかったようなものの、でも、ここがまさしく美濃と近江との国境になるという意味のみからではなく、王朝時代から、ここに寝物語、車返しの里なんていう名所が、心ある旅人に忘れられない印象を与えるところのものになっておりました。
寝物語の里というのは、一筋の小溝を隔てて、隣り合った一軒は近江に属し、一軒は美濃に属して、国籍を異にした二軒の家の者が、寝ながら物語りができたという風流の呼び名とはなっている。試みにその由来を両国屋という宿屋で尋ねてみると、次のような一枚の絵入りの刷物をくれる。
[#ここから1字下げ]
「一、此所を寝物語と申すは、江濃《がうのう》軒《のき》相隣《あひとな》り、壁を隔てて互に物語をすれば、其詞相通じ問答自由なるゆゑなり。むかし源義経卿、東へくだりたまひしとき、江田源蔵広成といひし人、御後をしたひ奥へ下らんとして、此所に一宿し、此屋の主《あるじ》と夜もすがら物語りせしうち、はからず其姓名をなのる。隣国の家に泊り合はせし人これを聞き、さては江田源蔵殿なるか、我こそ義経卿の御情を受けし静《しづか》と申すもの也、君の御後をしたひ、是まで来りしが、附添ひし侍は道にて敵の為にうたれぬ、我も覚悟を極め懐剣に手をかけしが、いやいや何とぞして命のうちに、今一度君にまみえ奉らんと、虎口《ここう》の難をのがれ、漸くこれまで来りしなり、おもひもよらず隣家にて其方のねものがたりを聞くうれしさ、これ偏《ひと》へに仏神のお引合せならん、此うへは我をも伴ひ給はれとありければ、源蔵聞て、さては静御前にてましますか、此程のおんものおもひ、おしはかり御いたはし、此上は御心安かれ、是より御供仕らんと、夜もすがら壁を隔てて物語し、翌日此所を御たちありしよりこのかた、此所を美濃と近江の国境、寝物がたりとは申伝ふるなり。其のちも度々、ねものがたりの叢記名所たるにより上聞に達し、辱《かたじけな》くも御上より御恵|被成下置《なしくだしおかれ》、不易の蹤蹟《しようせき》たり。
[#地から1字上げ]江濃両国境寝物語 両国屋」
[#ここで字下げ終わり]
とある。これは、あんまりあてにならない。静御前によって寝物語の里が生れたというより、誰かが呼びなした寝物語の里の名があって、静御前の謂《いわ》れが附会されたと見るが至当でしょう。
それはそれとして、もう一つ、それに附け加えて、たれがいつの頃、因縁をつけたのか、ここへ来た旅人が、わざわざ宿を替えて泊ってみるということなんぞもありました。
それは、上方《かみがた》から東《あずま》へ下るほどの人に、「行きかふ人に近江路や」は悪くないとしても、これから、「いつかわが身のをはり[#「身のをはり」に傍点]なる」という辻占《つじうら》がよろしくないというわけです。
尾張、美濃から出て近江に足を踏み入れる分には、何のことはないが、さて、これから近江路を、みのをはり[#「みのをはり」に傍点]へ出るという旅人にしてみると、何かしら人生の旅路のたよりなさというものが讖《しん》をなすような気持に駆られるのも、人情無理のないところがありましょう。そこで、いったん美濃路へ入った人が、また改めてわざわざ近江の国へ逆戻りをして、足を踏み直すというようなことをする、そのおまじないのためには、この寝物語の里が誂向《あつらえむ》きの地点になっていました。
今日のような科学の粋の時代に於てすら、地球上の暦数の都合上、海上のある地点では一日を二つこしらえて、そこを行きつ戻りつするようなことに於て三百六十五日を調節するところさえある。その頃美濃と近江との境で、ちょっとこんな地理的遊戯を試みて、行きこし旅の幸先《さいさき》を祝うということも、ありそうなことで、無からしめるほどの必要もなかったものでしょう。
今晩、この寝物語の里の近江領に属する家へ、机竜之助が泊りました。
それと例の小溝一筋を隔てた一方の、美濃路に属する方の家へは、代官の淫婦お蘭さんが泊り
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