ました。
マドロスもまた使いようによって、至って大きな便宜を供してくれる。房州で集めた船夫《せんどう》たちは、普通の船夫以上には毒にも薬にもならないが、その道にかけては安心でもあり、上陸して善良なる土着民となり得る。清澄の茂は一種の天才であり、あの存在が一般の芸術をつとめる。金椎《キンツイ》は黙々として聖書を読み、旨《うま》き料理を一同に提供することを使命としている。
登があれば乳母《うば》がなければならない。おのおの、その様によって集められた人材は、用い方でみな無くてはならぬものになる。
ひとり、岡本兵部の娘だけがいけない。これがいけないのではない、その娘だけを船中へ単独で収容して置けば何のことはないのだが、お松という娘がいるためにいけない。ではお松が悪い女か。悪いどころではない、その良き女性なるがために、一方がますます悪くなって行く。女では手を焼いた経験の多い駒井甚三郎が、この雲行きを見て、少なくともこれが新殖民最初の悩みとなるのではないかと思いました。
男子はおのおのその職に於て用ゆれば用い得られざるものは無いと信じているが、女子にはその法則が通らない。
これは寧《むし》ろ、後日の禍根のために、兵部の娘をこの船から隔離してしまうか――それはできない。
では、何かの威圧か、才能かによって、あの娘を使いこなすか、それも容易ではないことだと駒井は感じました。
女子と小人は養い難し――駒井は、やっぱりそうしたものかなあ、そうして、自分たちが必ずしも大人君子というわけではないが、ともかくも理想の天地を拓こうとする途に向っても、必ずしもその理解者のみが集まるものではない、かえって、その目的と全く齟齬《そご》した仲間を、同志のうちに加えて行かねばならない――たとえば女子と小人とは養い難いものであるとも、結局は大人君子の背負物《しょいもの》であって、度し難いものであるに拘らず、背負いきらなければならないのが人生の約束か知らん、とも思われてくるのです。
駒井甚三郎は、当面の欣喜と、前途の希望のうちに、明らかにこの悪い空気の※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんじょう》を見てしまいました。それを考えているところへ、清澄の茂太郎がやって来ました。
三十七
茂公は例によって、般若《はんにゃ》の面を小脇にしながら、突然に船長室を驚かして、
「殿様」
「何だ」
「明日はいよいよ、仙台|石巻《いしのまき》の港へ着くそうでございますね」
「うむ」
「嬉しいな、石巻で、お米や水を積込んで、それから南洋諸島へ渡るんですってね」
生意気な! 南洋諸島なんていう地名を誰に聞いて来た。
「南洋諸島ときまったわけではない」
「どこでもかまいません、あたいは嬉しくてたまらない、涯《かぎ》りないこの海を眺めるのが好きです、アルバトロスもいます、鯨もお友達です、明日は仙台石巻へ着けば、そこに七兵衛おやじも待っていましょう、田山先生も乗込んでいらっしゃるでしょう、そうしてまたこの限りない大海原を乗り切って行くのが嬉しい、嬉しい」
「茂太郎、勉強しなさい、とにかく、これからみんなして気を揃えて新しい国を作るのだから、お前も歌ばかり唄っていないで、皆の手助けをして、よく働くことを覚えなくてはならない」
「働きますとも――今でも学問は、あたいが一番よく覚えます、それから、水夫さんの手助けでもなんでもして働いていますから、みんなから憎まれません」
「それはよいことだ、船中で誰にも可愛がられ、誰のためにも無くてならぬ人になるように心がけなければいけない」
「あたいは憎まれてやしません」
「一つの船に乗組む人は、陸上の一家族の者よりも気を揃えなければならないのだ」
そこへ、お松が静かに入って来ました。
「茂ちゃん、船長さんのお邪魔をしてはいけませんよ」
「お松様、あたいはお邪魔なんぞはいたしません、今、殿様と、一つの船の中にいる人は、一つの家族であるよりも親密でなければならないということを話していたのです」
「ほんとうに茂ちゃんは、ませた口を利《き》きますねえ。ですけれどもその通りよ、みんなが全く気を揃えて、大船に乗ったつもりで、船長様を頭《かしら》に戴いて、船の中が一つの領土にならなければ、新しい国は作れません」
駒井の言うことも、お松の言葉も、茂太郎に対しては、知らず識《し》らず教訓になってくる。駒井をそれを、やっぱりわが意を得たりとして、
「皆のおかげで、処女航海もこうして無事に済んだことが、わしとしては嬉しいが、それよりも嬉しいことは、お松どのの言われる通り、船中みな気を揃えて、よく働いてくれたそのことが、わしとしては何よりも頼もしい」
駒井がかく言って船中一同に向っての感謝の意を表した時に、こまっしゃくれた
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