七兵衛冥利だ、こいつは一番、このお城の中の隅から隅――六十八万石の殿様のお居間から、諸士方の宿直部屋《とのいべや》、飯炊場《ままたきば》も、床下も、書割《かきわり》で見るんじゃねえ、正《しょう》のものを、正でひとつ、後学のために見ておいて帰るのも話の種だ。
 七兵衛は、これを考え出すと、今まで青葉城をながめていた眼の色が変ってきました。そうして、今まで退屈し切っていた心の緒《いと》が、急に張りきったのを感じたようです。
 駒井の殿様のお船が着くまでの睡気《ねむけ》ざましだ、なにも物が欲しい惜しいというわけのものではない、七兵衛は七兵衛冥利に、誰にも見られねえところの、六十八万石のお城の内部の模様を、一通り拝見すればいいのだ。
 それだけのことなら、こっちにとっては朝飯前と言いたいが、夜食の腹ごなしに、持って来いの前芸だ――今夜は一番、それをやっつけよう。
 七兵衛としては、この際、別段に路用に困っているという次第ではなし、人の急を救うために危うきを冒《おか》さねばならぬ義理合いがあるというわけでもなく、ただ閑々地にいて、つい不善を心がけるという心理からではないにしても、持った病の虫が、むらむらと頭をもたげたのは情けないことと言わねばなりません。もともとこの男は、慾で盗みをするより、手癖でする、好奇でする、興味でする。本能が、つい心と手とを一緒にそっちへ向けて、曲げてしまうことが多い。
 前に、芸者のあだ姿を見て、そぞろ心を動かしてみたが、今は、そのがらにない要《い》らざる遊興心が、すっかり吹っ飛んでしまい、今お城を見て動き出した本能心だけは、どうしても分別と反省が無い、のみならず、ムラムラといっそう昂上するばかりで、久しく試みなかった腕が鳴り――なあに、江戸の本丸、西の丸へでさえも御免を蒙《こうむ》れるほどのおれが、奥州仙台六十八万石が何だ――
 という慢心を、もはや如何《いかん》ともすることができませんでした。

         三十六

 明日は、どう間違っても、仙台湾に無事入港という確信を得た駒井甚三郎は、全く重荷を卸した喜びに打たれました。
 この重荷を卸したというのは、いろいろの意味にとることができます。自分の創製が全く試験済みになったというのと、自分の船によっての前例の無い処女航海を無事に果したという成功の喜び――それから最近、この船を王国か民国か知らないが、自分たちの新しい領土をめがけての世界的遠征の可能、そんなような複雑した感情で、前の晩、駒井甚三郎は、船長室の燈明《とうみょう》を以て前途の光明を見つめつつ、なお油断なく船を進めて行きました。
 しかし、一つ越ゆればまた一つの難所――がある、人生にはそれからそれと連続して関門のあることを、駒井は決して忘るることができません。一つの成功の次には他の魔障、しからずんば難関がもう待ち兼ねて目白押しをしている。
 駒井は、船の構造と、航海の技術との第一成功と共に自信は得たけれども、この処女航海の内容全部が、必ずしも成功とは言えないことを認めずにはおられません。失敗とは言わないが、工業として、技術としては成功のみが全部ではない、人心の和というものが一大事であることを、忘れるわけにはゆきません。
 この清新な門出の一歩に、もう船の中に悪い空気が湧いている。この悪い空気は、とりあえず兵部の娘の船室から起っていることを、駒井はよく知っております。
 お松という子に於て、駒井は最もよき秘書と助手とを得ました。駒井がお松を信任すること、お松を信任せざるを得ないほど、お松そのものの素質が適合していることが、兵部の娘にとって不平であり、嫉妬でもあり、反抗の源ともなろうとしている空気が、駒井にはよくわかるのであります。そうして、兵部の娘はその鬱憤のためにマドロスを近づけていることもよくわかります。
 殖民には女子が無くてはならぬ、婦女子を伴わぬ殖民は、結局、海賊に等しいものになって、永遠の成功は覚束《おぼつか》ない、なんぞということは、駒井も研究しておりました。このたびの船出に当っては、単純に、自分の身辺に居合わす人々を授けられたもののようにして、格別吟味もせずに収容しました。駒井としては人間性にさのみ甲乙を認めるということがありませんから、かえって環境によってねじけさせられたり、荒《すさ》ませられたりした人間を伴って行くことが、別の世界の陶冶《とうや》の一つの趣味であるとさえ考えられていたのです。田山白雲はまた一種の豪傑の徒であり、七兵衛は実直な農夫とも見えるが、またなかなか食えないところもある苦労人とも見られるが、頼めば頼もしい人間であり、つかえる人間であることは駒井が認めています。ことに彼が農業に堪能《たんのう》であるということは、新天地を拓《ひら》くのに無くてならぬ素養だと思い
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