いつまでクヨクヨと物案じをしている男ではない、コック部屋からまた給仕部屋へ帰ってから、このことがきっかけに、妙な方へこの少年独特の頭が働き出してきたことです。
日本の絹は世界で第一等だ――とここのマネージャが言っていると、今もコック見習の六ベエが言った。それに違いない、そのことは常々自分も聞いていたのだ。聞いているのみではない、各地から、いろいろの絹と絹織物をマネージャが取寄せて、自分も手伝ってその整理に当ったことがある。その時に、もっと自分に語学が分りさえすれば、この絹の質はどうで、産地はどうで、織りはどうだということを、事細かに説明してやれるのだが、言葉の不自由から、その方面の知識は多分に持ちながら、如何《いかん》ともすることのできなかったのを、もどかしがったことがある。
順序を追うてそれを思い返しているうちに、発止《はっし》とこの少年の頭に閃《ひらめ》いたのは、そうだ、この絹だ、この絹をまとめて、外国へ売ってやることはできないか。
いま、日本に来ている外国人なぞは、本国はおろか、たいてい世界の各地を渡り歩いて来ている人たちだ、それが特別に日本の絹を珍重がるからには、日本の絹には、たしかに世界の何国のものも及ばない特質がある証拠に相違ない、そうだとすれば――そうして日本の国では、絹なんぞは、そんなに珍しくないのみならず、こしらえればいくらでも出来る。桑を植えて、蚕を飼いさえすれば無限に生産のできる品なのだ。現に自分の故郷の甲州なんぞでも、山畑の隅々までも手飼いの蚕のために桑を植えてある。いかなる賤《しず》の女《め》も、養蚕の方法と、製糸の一通りを心得ていないものはない。
これを買い占めて、外人向きに精製して売る――これはたしかに商売になる、そうして仕事が大きい、生産は、天然に人力を加えるだけだから、無限にあとが続く。
そうだ!
忠作はついに、マダム・シルクをこんなようにまで算盤《そろばん》にかけて、おのずから胸の躍《おど》るのを覚えました。
三十四
駒井甚三郎が最新の知識を集中してつくり上げた蒸気船よりも、七兵衛の親譲りの健脚の方が、遥かに速かったのは是非もないことです。
磐城平《いわきだいら》方面から、海岸線を一直線に仙台領に着した七兵衛は、松島も、塩釜もさて置いて、まず目的地の石巻《いしのまき》の港へ、一足飛びに到着して見ました。
駒井の殿様の一行の船はどうだ――もう着いているか知らと、宿も取らぬ先に港へ出て隈《くま》なく見渡したけれど、それらしい船はいっこう見当りません。
でも、七兵衛はガッカリしませんでした。何しても前例のない処女航海ではあり、極めて大事を取って船をやるから、到着の期限は存外長引くかも知れない。万一また、途中、天候その他の危険をでも予想した場合には、不意に意外のところへ碇泊《ていはく》してしまうかも知れない。それにしても目的地は石巻に限っているから、船に進行力のある限りは、石巻到着は時間の問題である――先着した時は、多少気長に待っていてもらいさえすればよろしい――その打合せはおたがいによく届いていましたから、船が港に見えなくても、七兵衛は心配するということなく、相馬領から鉄を買い出しに来た商人のようなふりをして、石巻の港のとある宿屋に宿を取りました。
そうして当座の仕事というものは、毎日毎日海を眺めることです。海を眺めて目指す船の影が見えるか見えないかという当りをつけることが毎日の日課ではありますけれども、この日課は、仕事としては実に単調過ぎたものであります。
そこで七兵衛は、副業としての、この近辺の名所古蹟を見物して歩くということが、本業のようになってしまいました。
名所古蹟を見るつもりならば、この辺は決してその材料に貧しいところではありません。その頭と興味とを以て臨みさえすれば、数カ月この辺に滞在したからと言って、さのみ退屈するところではないのです。
早い話が、この石巻の港にしてからが、奥の細道を旅した芭蕉翁が、この港に迷い込んだことがあるのであります。
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「終《つひ》に道ふみたがへて、石の巻といふ湊《みなと》に出づ。『こがね花咲く』と詠みて奉りたる金花山海上に見わたし、数百の廻船、入江につどひ、人家地をあらそひて、竈《かまど》の煙たちつづけたり。思ひがけずかかるところにも来《きた》れるかなと、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道まよひ行く」
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なんぞは、今の七兵衛の身に引かされもするし、旅情及び詩情の綿々たるものを漂わせないではないけれども、七兵衛は、日頃あんまりそういうことに興味を持っていないのです。
それから、石巻の港は河村瑞軒《かわむ
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