里について三万両もかかることはかかるが、一度こしらえてしまえば永久に持つから、その利益は計るべからざるものであること――こうして一定の鉄路の上を走るから、車のとても重いのにかかわらず、速力は非常に早く、蒸気船よりももっと速い――一時間に三十|哩《マイル》、急用の時は五十哩は走らせることができるから、仮りに十二時間走り続けるとして、五百哩走ることができる。
 江戸から京大阪を通り越して芸州の広島まで、一日のうちに往《い》って戻ることができる――こういう説明が、見物のすべての魂を飛ばしてしまいました。
 そうして、この原動力としては、単に鉄瓶の蓋《ふた》をあげる湯気に過ぎないということ。ワットがその鉄瓶の湯気を見たばっかりに、この大発明が出来上ったということ。そうして蒸気の力というものは、単に船と車にばかり応用するものではない、川を渡るにも、水を汲むにも、山を登るにも、田を耕すにも、銅鉄の荒金を精錬するにも、毛綿の糸縄を紡績するにも、材木をきるにも、あらゆる器具を作るにも、すべてこの力を応用し、職人は自分自身手を下さないでも、機関の運転に気をつけてさえいれば済む、そうして一人の力で、楽々と数百人に当る働きを為すことができるのだ――
 こういうような説明を、実験のあとで聞かされた時に、誰しもその荒唐を疑うの勇気がありませんでした。
 一方の隅にかたまって、陪観《ばいかん》の栄を得ていた忠作は、特に心から感動させられずにはいなかったらしい。この点に於ては、たしかに毛唐《けとう》と日本人とは頭が違う、なにも我々だって卑下するには及ばないけれども、それにしても、今の日本人はあちらの人を知らな過ぎる、これではいけない、それではならない。忠作はまたここで、自分ながらわからない敵愾心《てきがいしん》の昂奮し来《きた》るのを覚えました。
 事が終って支配人のところへ行くと、支配人がまた、
「マダム・シルク、今日来ル約束、来ナイ、どうしました」
「左様でございます」
「マダム・シルク、せっかくジョウキシャ見ナイ、残念」
「左様でございます」
 忠作はなんとなく、自分の返答がそぐわないものを感じたのは、支配人の言うことがよく呑込めなかった自然の結果で、そうして、語学の出来ない者が、へたにそれを問い返すことは、西洋人の御機嫌を損ねる結果に終ることを知っているから、そのままテレ隠しを上手にやって、珈琲《コーヒー》茶器を持ってコック部屋の方へ行きました。

         三十三

 コック部屋へ来ると、コック見習をしていた六さんというのが、いきなり言葉をかけて、
「忠さん、今日はお絹様がおいでになりませんでしたね、それでマネージャがたいそうがっかり[#「がっかり」に傍点]していましたね」
「あ、そうでしたねえ」
「マネージャは、今日の実験をお絹さんに見せたかったんだね、そうしてその交易に、お絹さんの顔を見たかったんだよ」
「そうか知ら」
「そうかしらじゃねえね、うちのマネージャときちゃ、すっかりお絹さんに参ってるんだぜ」
 コックの六さんが、だんだん小声になって言うから、
「そんなことはあるまい」
「ないどころか、日本の絹は世界一だってね、それと同じことに、マダム・シルクの年増《としま》っぷりが、飛びきりの羽二重《はぶたえ》なんだとさ」
「マダム・シルク?」
 その時に、忠作がハッとしました。そうだ、最初に自分が行った時に、今日はマダム・シルクが来るはずだが、来たら早速庭へ通せとマネージャが言った。
 実験が済んだ後に、今日は来るべき約束のマダム・シルクが来ていない、残念と言った。
 その何であるかは、忠作の頭にその時までピンと来なかったのだ、多分知合いの西洋人の友達だろうぐらいに心得て、お茶を濁した返事でごまかしていたが、今こう言われてみると、ヒシと思い当るのだ。そんならば、そのように返事のしようもあったものを――自分ながら何という血のめぐりの悪さだ、何が若くて頭がいいんだ、そのくらいの気転が利《き》かないで、どうして外国人のお相手がつとまる!
 何のことだ、ばかばかしい。
 忠作は、一時、全く自分というものが、やっぱり低能児のお仲間でしかあり得ないのではないか、と歯噛《はが》みをしてみたのです。
 事実、この支配人が、お絹さんにまいっているのかいないのか、そんなことは詮索《せんさく》する必要はないが、お絹さんをマダム・シルクと呼ぶことは洒落《しゃれ》にしても、立派に筋の通った洒落だ。まして、あちらは洒落でも揶揄《からかい》でもなく、多少の熱情と敬意を持つ真剣の呼び名であるとしたら、そのくらいのことを心得ないで、外人相手の奉公なり、商売なりが勤まるか、つとまらないか。
 忠作は自分ながら、それを歯痒《はがゆ》さに堪えられないでいたが、そうかといって、
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