、この少年を憂えしめたことは、商売をするといったところで、向うから買うべきものがうんとあるが、こちらから売るべきものは何がある、向うから買うべきものばかり多く、こちらから売るべきものがなければ、やがてこの国の富はすっかりあちらへ持って行かれてしまうではないか。
 忠作は、今この貿易学の初歩について、つくづく考えさせられています。そうして今日の午後、自分の部屋で、コックさんから貰った一瓶のビールを味わいながら、忠作は、この酒は異人が上下となく好んで飲む酒だが、なんだか苦くって、大味で、日本人には向きそうもない、自分は利酒《ききざけ》ではないが、どうも将来とても日本人が、こんな苦くて大味な酒を、好んで飲むようになれるかなれないか考えものだと思い、それと同様に、異人がまた日本酒の醇なやつを、チビリチビリと飲むというような味が分って来そうにもない、どうも、日本の酒と、異人の酒とは、趣味のドダイが違うから、将来、あっちの酒をこっちへ持って来て売るようにはなれまいし、こっちの酒を向うへ盛んに売り出すようにはなれまい、そうすると、異人を目当ての酒の交易は、まあ当分、見込みはない、なんにしても今時、向うから持って来て、こっちへ売れるのは鉄砲だ、酒と違って、向うの鉄砲だってこっちの人間を殺せる、しかも殺し方が遥かに優れている、鉄砲を持って来て売り込むことは的を外れないが、それだって、日本の鉄砲は向うへ向けて売り物にならないから片交易だ。
 忠作は、こんなことを考えながら、一杯一杯と好きでもないビールを呑んでいるところへ、突然|扉《ドア》を叩く者がある。
「どなた」
「忠ボーイさん、御在館でげすか、ほかならぬ金公でげすよ」
 おっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]の金助が来たな、と忠作は直ちに知りました。
「金さんですか、お入りなさい」
 難なく扉があいて身を現わしたのは、例によって野幇間《のだいこ》まがいのゾロリとしたおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]の金公でゲス。
 忠作は本来、こいつはあんまり好まない奴であるけれども、自分がここに住込むことになったに就いては、お絹を通しての最も有力なる橋渡しの一人でもあるし、これが持ち込む情報がまた、外国人に取入る好材料となったりすることもあるし、また或る意味に於ては、お絹を代表して、忠作と共通みたような儲《もう》け口の組合員ともなっているのだから、こいつの、なれなれしくやって来るのを、無下《むげ》に斥《しりぞ》けることもできないようになっている。
 身を現わした金公は、例によって、いや味ったらしい表情たっぷりで、早くも卓子《テーブル》の上のビール瓶に眼をつけ、いま忠作が代り目をつぎ込んで、まだ泡の立っているのを見ると、図々しく、
「これは乙りきでげすな、黄金色《こがねいろ》なす洋酒のきっすいを、コップになみなみと独酌の、ひそかに隠し飲み、舶来のしんねこなんぞはよくありませんな、金公にも一つそれ、口塞ぎというやつを――なあに、そのお口よごしのお流れで結構でげす……」
 こう言って咽喉《のど》から手を、そのコップのところへ出したものです。
「いや、コックさんから一瓶貰って、ちょっと仕事休みに飲んでみただけのものなんだよ。なんだか苦くて、大味で――わしゃ酒のみじゃないけれど、それでもあんまり感心しないと思って、ながめていたところだから、金さん、よければみんなおあがり」
と言って忠作は、瓶の栓を抜いて、注ぎ置きのコップの上へまた新たに注いでやると、シューッとたぎる泡が、コップの縁いっぱいにたぎり出しました。そうすると金公が大仰に両手をひろげて、
「あ、結構、有難い、何てまあ、この黄金色なす泡をたぎらす色合いの調子、ビールってやつでござんすな、ビール、ビルビルビルと一杯いただきやしょう」
 物にならない駄洒落《だじゃれ》を飛ばしながら、金公はそのコップを取り上げてグッと一飲み、ゴボゴボとせき込みながら、
「なるほど――苦くて大味、というところは星でござんすな。但し、すーうと胸に滞《たま》らず、頭に上らず――毒にもならず、薬にもならずというところでげすから、泡盛《あわもり》よりは軽い意味に於て、将来、こりゃなかなか一般社会の飲物として流行いたしやしょう」
 金公は、ホンの口当りにこんなことを言ったのだが、忠作はまたそれを先刻の胸算用に引きあてて聞きました。なるほど、金公の出鱈目《でたらめ》も聞きようによって算盤になる、苦くて、大味で、日本向きではないと、自分はさいぜん独断を下してみたが、金公のような、その道の奴に言わせると、胸に滞らず、頭に上らず、毒にもならず、薬にもならず、軽い意味に於て、将来一般に流行《はや》る平民的飲物としての素質を持っているとすれば、この酒も将来、日本人にとって、一種の
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