じて、のこのこと芸妓家へ泊り込んだりなどしたら大笑いだ。今晩福松を訪ねたのは彼女を利用せんがためであって、その好意に甘えんがためではない。
 兵馬は、この間の代官屋敷の兇行者を、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵だと睨《にら》んでいないまでも、彼が有力な芝居をすることを前後の事情から推察している。だが、がんりき[#「がんりき」に傍点]をがんりき[#「がんりき」に傍点]として目星をつけたのではない。代官屋敷に宿直をしている時、自分とお蘭さんとを間違えて口説《くど》きに来た悪党めいた奴があった。その時、取っつかまえてやろうとしたが、存外すばやい奴でとり逃したが、あいつがこのたびの事件に有力な筋を引いているように思われてならない。代官の首を斬るというほどの役者ではないが、お蘭さんをかどわかすぐらいのことをやり兼ねない。時を同じうしての出来事だから、代官を斬ったのと、お蘭を奪ったのとが同一人の仕事のように見えるけれども、どうも別々の事件のように思われてならない。
 そうして、代官を斬った奴はもうとうに国境を出て行ってしまっているかも知れないが、お蘭さんをかどわかした奴は、ことによるとまだ町の内外に隠れて、ほとぼりの冷めるのを待っているかも知れない。
 今晩、その辺の当りをつけるために、わざわざ福松の御神燈の下に立ったのは、商売柄こういう女を利用すれば、何かきっかけが得られないものでもあるまいとの用意でした。
 そこで、今、兵馬はお雪ちゃんと宿所を共にしているところの相応院の坂を上りながらふり返ると、まさに草木も眠りに落ちている高山の天地――宮川筋にまばゆき二三点の火影《ほかげ》のみがいやになまめかしい。
「泊っていらっしゃいな、あら、わたしのところじゃおいやなの……」と言った声が、油地獄の中の人のように兵馬の耳へ事新しく囁《ささや》いて、甘ったるい圧迫がまだ続いている。泊れと言われたら、泊って来たらいいじゃないか――ばかな……
 というようなうつらうつらした気持で後ろの夜景を顧みながら、足はすたすたと相応院の方へのぼりつめている。
「いま帰りました、おそくなりました」
 軽くお雪ちゃんに挨拶したつもりなのだが、返事がありません。返事が無いのは眠っている証拠だから安眠を妨げないがよろしいと、ひそかに井戸端で足を洗って、座敷へ通って見たが、いつもある有明《ありあけ》の燈火が無く、兵馬が手さぐりに近づく物音にも、お雪ちゃんはいっこう驚かず、やっと火打をさぐりあて、カチカチときっ[#「きっ」に傍点]た物音にも、パッと明るくした明りにも、お雪ちゃんはいっこう醒めず、その行燈《あんどん》で兵馬が一応室内をあらためて見た時、いずれの部屋にもお雪ちゃんの姿を見出すことができません。それでも室内は出て行った時のまま整然として、誰も踏み込んだ形勢はない、お雪ちゃんのよそゆきであるべき衣裳すらが、そっくりと衣桁《いこう》に掛けたままです。

         三十

 お絹の世話で、砂金掘りの忠作は、ついに異人館のボーイとして住込むことになりました。
 ここで、親しく異人の生活の実際に触れてみると、忠作としては、今までの想像に幾倍する経験と知識とにあがきを感ずるほどです。
 敏慧なこの少年は、ここで一から十までも学び尽さねばおかないという気になりました。
 まず、異人館の間取間取を覚え、その器具調度の名を覚え、かの地から持ち込まれた商品と器械とを逐一《ちくいち》に見学して、頭と手帳に留めてしまいました。
 その間に西洋人というものの気風をすっかり呑込まなければならないと考え、西洋人にも幾通りもあることを知り、そうして、日本人の大部分が、それを毛唐《けとう》という軽蔑語で一掃してしまうことの無知を今更のようにさとり、異人の気風を知るには、まず異人の国々を知り、その国々の歴史と成立ちをも知らなければならないということに気がつくと、その方面の学問を、多少に限らず頭に入れておかなければならないと知ったのはあたりまえです。
 そういうふうに頭の働く少年にとっては、見るもの聞くものが、ことごとく新知識となって吸入されぬということはなく、忠作の得た結論は、どうしても、今の日本人よりは毛唐の方が遥かに進んでいる――日本人は獣類同様、或いはそれ以下に異人を見下しているけれども、事実、仕事をする上に於ての大仕掛と、金儲《かねもう》けの規模の世界的なることに於て、今の日本人は梯子《はしご》をかけても及ばないことを知り、異人が必ずしも日本の国をとりに来たというわけのものではなく、談笑の間に商売をしに来たのだということの方面が、忠作にはよくわかり、そうして将来の商売はどうしても、この異人を相手にしなければ大きくなれないということを、すっかり腹に入れてしまいました。
 だが同時に
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