――それで、このお兄さんの冤罪《えんざい》というものは晴れたわけだが、そうなると今度は、お兄さんの方でお聞き申してえのは、いったいその、お蘭さんと出来てだいそれた主人殺しをやり、国を走ったその浪人者というのは、どこのどういう奴なんだえ」
「それがさっぱりわかりませんのさ」
「わからねえ、お代官の役人の手でも?」
「ええ、もう少し早いと、国境を越す前に捕まえてしまったんだそうですが、うまく国境を出られてしまったから、どうにも手が出しにくいんだそうです」
「国境を出たといったところで、お前、女連れで遠くは行くめえし……それに、日頃お蘭さんと出来ていたっていう浪人なら、たいてい当りがつきそうなものじゃねえか、きのうや今日のことじゃねえ、どのみち、お代官に居候か何かしていた覚えがあるという代物《しろもの》なんだろう」
「ところが、それが全くわからないのですよ」
「わからなければ、草の根を分けても尋ねたらよかりそうなもんだ、国境を出たからといって、たいてい道筋はわかっているだろう……悪い者をふんづかまえるに、近所近国といえども遠慮はなかろう」
「ですけれど、今の時勢で、この高山はお代官地でしょう、近国はみんな城主のものになっていますから、思うようにいかないんだっていうことよ」
「まだるい話だな――じゃ、お蘭さんの奴、色男に手引をして、お主《しゅ》を討たせた上に、手に手をとって、今頃は泊り泊りの宿で、誰はばからずうじゃついているという寸法なんだな――畜生!」
「ほんとに憎いわね、その色男より、お蘭さんという人がいっそう憎いわね」
「お蘭……悪い奴だなあ」
「お前さんなんて、傍へ置こうものなら忽《たちま》ちちょっかいを出すだろう、出すんならまだいいが、出されちまいまさあね」
「ふん、たんとはいけねえが、一度はお近づきになっておいても悪くなかった奴さ」
「その口をつねるよ」
「だがねえ……そこんとこにも、ちっと腑《ふ》に落ちねえ節があるんだ、お蘭様というお部屋様の素姓のほどは、おいらも聞いていねえじゃねえが、このいろ[#「いろ」に傍点]という奴がどうも怪しいものだぜ」
「そりゃ怪しいにもなんにも」
「怪しいといったってお前――お前はかねて、この怪しい奴とお蘭さんと出来ていて、二人がしめし合わせてやった仕事のように言うが、おいらにゃ、そうは思えねえ」
「どうして」
「どうしてったって……お前、その証拠をひとつ見せてやろうか」
と言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、後生大事に船の中からここまで抱えこんで来た小箱の包みを今更のように持ち出し、福松の鼻先に突きつけて早くも結び目を解きにかかりました。
「何なの、いったいそれは――」
福松が覗《のぞ》き込むのを、がんりき[#「がんりき」に傍点]は取りすまして、
「こりゃ、その、何さ、おいらが特別にあのお蘭さんからのお預りの一品さ。まあ、どうしてこちらがあのお蘭さんから特別のお預りを持たされるようになったかってえことは聞かないでおくれ、とにかく、あのお蘭さんから、この兄さんが特別に頼まれた一品をお預り申していると思召《おぼしめ》せ、それがこの箱なんだ。ところで、この玉手箱の中身を、ほかならぬお前のことだから、見せてあげようという心意気だ、そうれ、よくごらん」
と言って、結び目を解き終ったがんりき[#「がんりき」に傍点]が、怪訝《けげん》と呆《あき》れをもって見つめている福松の鼻先で、包みの中から出た蒔絵《まきえ》の箱の蓋を取って、いきなり掴《つか》み出したのが金包であります。
「そうら、百両包みが三つ――都合三百両、これがお蘭さんの当座のお小遣《こづかい》さ。ほかにそら、持薬が二三品と、枕本、手紙、書附――印籠、手形といったようなもの」
「おや、おや」
「どうだ、こういうものをお蘭さんが人手に預けっ放しにして置いて、駈落というはおかしなもんじゃねえか、色男と手に手を取って逃げようとでもいう寸法なら、さし当り、この一箱をその色男の手に渡して置かなけりゃ嘘だ、昔から色男になる奴は、金と力が無いものに相場がきまっている、そいつがお前、お蘭さんのつれて逃げたという色男の手に入らねえで、ほかならぬこの兄さんの手に落ちている――してみりゃ、かねてその色男としめし合わせて今度の駈落、というのは嘘だあな」
「じゃ、どうしたの」
「お蘭さんはお蘭さんで、かどわかされたんだね、決して出来合ったわけでも、しめし合わせたわけでもないんだ」
「そうだとすれば、かわいそうね」
「うむ、かわいそうなところもある、第一、駈落には、金より大事なものはあるにはあるが、金が先立たなけりゃ身動きもできるものじゃねえのさ、その大事の金を一文も持たずに連れ出されたお蘭さんという人も、たしかにかわいそうな身の上に違えねえから、ここは一番
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