る。
「今日もお茶よ」
 委細心得て、長火鉢の前にがんりき[#「がんりき」に傍点]を引据えた福松の投げつけるような御挨拶、この芸妓はこの間の晩、やっぱり柳の下で、だらしのない、しつっこい芸当をしきりに演じていた兵馬なじみの芸妓であり、お代官の思われ者であり、当時、高山では売れっ妓の指折りになっているのだが、昨今の天災続きで、ここ随一の流行妓《はやりっこ》も、このごろはお茶を引かざるを得なくなっている晩である。
「いやんなっちゃあな」
 米友の口調めいたことをがんりき[#「がんりき」に傍点]が言う。
「全くいやになっちゃいますね、ただ不景気だけならいいが、人気がすっかり腐って、世の中がこわれちゃいそうなんだから」
 福松はこう言いながら、吸附煙草をがんりき[#「がんりき」に傍点]にあてがう。
 この野郎、もう僅かの間に、このぽっとり者へ渡りをつけてしまったものと見える。ぽっとり者の方でも、この高山の土臭いのや、郡代官のギコチないのより、口当りだけでも、きっぷのいい江戸ッ子気取りの兄さんを用いてみたい心意気があったものと見える。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、抱え込んで来た小箱の包みを下へ置いて、長煙管《ながぎせる》を輪に吹いていると、芸妓の福松が頬っぺたを兄さんにくっつけるようにして、
「兄さん、もう疑いが晴れたから、許してあげよう、今晩からここへお泊りな」
「う、ふ、ふ、何かお前に許していただくような悪いことをした覚えがあるかねえ」
「大ありさ。だが、少し罪が軽くなったというまでのことで、まだ無罪放免というわけじゃないんだから、ここへ泊めて上げるには上げるが、ひとりで出歩きはなりませんよ」
「おや、何とか言ったね――どうやらおいらは兇状持ちででもあるかなんぞに、お前という人からイヤ味を言われるのは、きざ[#「きざ」に傍点]だけじゃすまされねえぜ」
「そういうわけではないんですよ、わたしは皮肉に出ているわけでもないのですが、御縁だから兄さんを大事にして上げたいとこう思っている親切気から、そう言ってあげるのだわ。内実のところは、わたしゃ、てっきり兄さんと睨《にら》んでいたのよ。というのは、お代官様のあの一件ね、あんなすさまじいことをやる人は……もしやわたしの兄さんじゃないかしらと、もっぱらこう疑っていたんですけれど、堪忍して下さい、わたしの的が外《はず》れました、うちの兄さんは、決してそんな悪党ではありませんでした」
「何を言ってるんだい――おれがお前、お代官の首をちょんぎったり、それをお前、中橋の真中で曝《さら》しにかけたり、そんなだいそれた芸当のできる兄さんと思っていたのかい」
「でも、ほかに、あれほどの事をやりきる人は、まずこの高山にはありませんからね、それで、もしやと兄さんを疑ってみたんですが、その疑いがようやく晴れたから御安心なさいと、そう言ってあげているんですよ」
「自分勝手に、ありもしねえ疑いをかけておきながら、疑いが晴れたから安心させて遣《つか》わすなんぞは、あんまり有難くねえ」
「ですけれども、すっかり疑いが晴れてしまったわけじゃないのよ、まだ充分に疑いの解けない点もありますのよ」
「疑いの解けない点と来たね、その点を、ちょっとつまんで見せてもらいてえ」
「お代官様をあんなことにしたのは、お前さんの仕業じゃないにしても、お蘭さんを連れ出したのは、どうも臭いよ……そればっかりはまだ疑いが解けないねえ」
「へえ、してみると、あのお蘭さんというみずけたっぷりなお部屋様をそそのかして連れ出したのが、この兄さんだろうと、今以て疑念が解けなさらねえとこういうわけなんですか」
「ところが、実のところは、それもすっかり疑いが解けてしまったはずなんですけれども、どうも、それでもなんだか臭いところがあると思われてたまらないのさ」
「御念の入ったわけだが……どうもわっしにゃ呑込めねえ」
「それじゃ、疑いのすっかり晴れた理由と、まだ晴れないわけとを、よく説きわけて上げるから、お聞きなさいよ」
と言って福松は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の手から長煙管をひったくるように受取って一服のみ、
「わたしは、お代官をやっつけて、お蘭さんはどこぞへさらって行って隠して置く悪い奴は、最初のうちは、てっきりお前さんのした仕事のように思われてならなかったのさ、ところが、きのうになってようやく確かな筋から聞いたところによると、お代官を殺したのは、ある腕の利《き》いた浪人者で、それがお蘭さんとかねて出来ていて、お蘭さんが手引をしてあんなことをさせ、そうしてあらかじめ早駕籠《はやかご》を用意して置いて、人が追いかける時分には、もう国境《くにざかい》を出てしまって、手がつけられなくなっている、ということを聞いたから、それで安心しましたの」
「なるほど
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