なおばさんのお化けが、びっくり仰天して立ち上るや、転がり、震動して、その場を逃げ出してしまったのはあんまり意気地がない。
 その意気地のないお化けの図体が、こちらの水たまりのところで踏み止まったのを見れば、なんの……これはイヤなおばさんその人の亡霊でもなんでもない、以前、一度見たことはあるが、根っから見栄えのしない、いつぞやあちらの焼跡の柳の下で、どじょうを掬《すく》っていた紙屑買でありました。
 この紙屑買の名を、この辺ではのろま[#「のろま」に傍点]清次と言っている。察するところ、この紙屑買ののろま[#「のろま」に傍点]清次は、あの晩、ああして焼跡をせせくった味が忘れられず、何でも焼跡と見ればせせくって、もの[#「もの」に傍点]にしなければ置かない性分と見える。そこで今晩は、イヤなおばさんの焼かれ跡へ眼をつけて、ここまで忍んで来ていたなどは、のろま[#「のろま」に傍点]どころではない、生馬の目を抜く代り、死人の皮を剥ごうという抜け目のない奴であります。
 何となれば、あの焼跡では、あんな怖い思いをしたけども、同時に、相当なにか獲物にありついた覚えがある。今はもう、掘りつくし、せせりからしてしまったあとへ、バラック建築がひろがってしまったから、しゃぶってもコクは出て来まいが、それに就いて思い起したのは、あのイヤなおばさんの焼跡である。本来、この町の目ぬきのところを、あんなに焼いて、自分にも多少|儲《もう》けさせてくれた恩人というものは、一にあの穀屋のイヤなおばさんの屍体の処分から起っている。
 そのくらいだから、その本元をせせってみれば、まだ何か落ちこぼれが無いとも限らない、あのおばさんの屍体は、とうとう河原の中で焼き亡ぼされる運命におわってしまったが、その焼跡の灰を安く入札したものがあるという話も聞かないし、おばさんの屍体を焼いて、粉にして、酒で飲んだものがあるという噂《うわさ》も聞かない。
 身につけたもので、金の指はめ[#「はめ」に傍点]だとか、パチン留めだとか、銀の頭のものだとか、煙草入の金具だとかいうものを、焼灰の中からせせり出す見込みはないか。
 紙屑買ののろま[#「のろま」に傍点]清次は、今晩それに眼をつけて、イヤなおばさんの焼灰の跡をせせりに来たものに相違なく、決して最初想像したように、おばさんの亡霊が、心やみ難き未練があって、うきみをやつして化けて出たものではない。
 そうなってみると、一方から、この小胆にして多慾なる紙屑買をオドかして、蘆葦茅草をガサガサさせたいたずら者の何者であるかということも、存外簡単な問題であって、それは貉《むじな》でした。

         二十七

 土俗の間では、貉と狸とは別物になっているが、動物学者は同じものだと言っていることは前巻にも言った。ともかく、このせせこましいうちに、多分のユーモアを持った小動物は、東方|亜細亜《アジア》特有の世界的珍動物の一つとして学者から待遇されている。人を化《ばか》すとか、腹鼓《はらつづみ》を打つとかいう特有の芸能を見る人は見る人として、犬族としては珍しく水に潜り、木にのぼる芸当を持っているということを学者は珍重する。食物にも選り嫌いというものが少なく、小鳥も食い、蛇も食い、野鼠も食い、魚類も食い、昆虫も食い、蝸牛《かたつむり》も、田螺《たにし》も食うかと思えば、果実の類はまた最も好むところで、木に攀《よ》じ上ることの技能を兼ねているのはその故である。
 ただ、かくの如く、器用であり、魅惑的の芸能を持ち、食物に不平を言わない当世向きの性格を持ちながら、自分が自分としての巣を作ることを知らない、他動物の掘った穴の抜けあとを探しては、おずおずとそこを占領して自分の仮りの住家とする、追い出されれば直ちに出て行く代り、岩の穴でも、木のうつろでも、身を寄せて雨露を凌《しの》ぐところさえあれば、そこに身を寄せてまた不平を言わない代り、いつまで経っても自分の力を以て文化住宅を営もうなんていう心がけはないのです。
 この原始的にして、進取の心なく、抵抗の力に乏しい小動物は、今し夜陰、こうして食物をあさりに出たものと見える。その出動がはからずも、紙屑買であり、焼跡せせりであるところの、のろま[#「のろま」に傍点]清次の仕事を脅《おびやか》す結果になったとは自ら知らない。
 自分が人を脅して、かえって自分がそれにおびやかされている。
 紙屑買ののろま[#「のろま」に傍点]清次は水たまりのところまで息せき切って避難してみたが、この敵は存外手ごたえがなく、いつぞや焼跡で見た幽霊であり、辻斬の化け物であり、柳の下で組み伏せられた若衆のような手硬い相手でないことに気がつくと、またそろそろと、おばさんの最期《さいご》の焼跡の方へ立戻って来ました。
 立戻って来て見ると、も
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