してひとりで旅に出ることなんぞは許されるはずがありませんもの」
「でも、そのままでは仕方がないでしょう」
「だって、弁信さんだって――いつも着のみ着のままで、旅に出るではありませんか」
「わたくしは違います――わたくしは世間の人と違って、旅が常住ですから……」
「なら、わたしにもその真似《まね》をさせて下さい」
「それはあぶないです」
「あぶないことはございますまい、不自由な弁信さんが着のみ着のままで出られるように、ともかくも五体満足な、女の身ではあるけれども若い盛りのわたしが、着のみ着のままで出られないはずはありません、もし、間違っても、それはあなたの責任ではありませんから」
「よろしうございます、では、このまま出かけましょう」
「出かけましょう」
二人はこの場の出来心――というよりも、非科学的であることの甚《はなはだ》しい弁信法師の頭だけの暗示をたよりとして、一種異様なる駈落《かけおち》を試みようということに、相談が一決してしまったのです。
「弁信さん、わたしが死ぬ時は、あなたも一緒に死んで下さいますか」
「死にますとも」
弁信は事もなげに答えました。異様なる縁に迫られて、二人は駈落の相談から、合意の心中をまでも、事もなげに話し合い、こうして二人の行先はきまりました。
美濃の国――関ヶ原、関ヶ原。
二十六
二人が長堤を閑々《かんかん》と歩いていた時、屋形船から首を出して、お雪ちゃんに認められたところの男が、あわただしく首を引込めてから、船の中で大あくびをし、
「いやどうも、忍んでいると日が長い、日が長い」
これは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵という野郎でありました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]は大あくびをしてから、船の中を見返したが、薄暗い捨小舟の中には、いま自分が枕にしていた小箱のほかには何物もない。何だか知らないが、この狭苦しい舟の中へさえも、ひしと迫る言い知れぬ倦怠のような、淋しいようなものが漂うて来るのに、うんざりしたものらしい。
ともかくも黄昏時《たそがれどき》ではあるが、この男の出動する時刻にはまだ間もあるものと見え、いったん眼を醒《さ》まして、破れ簾《すだれ》をかかげて外の方を見渡した。とろんとした眼を据えて、そのまままた小箱を枕にゴロリと横になり、半纏《はんてん》を頭から引被《ひっかぶ》って寝ころんでしまったものです。
相応院の入相《いりあい》の鐘がしきりに、土手を伝い、川面を伝って、この捨小舟《すておぶね》を動かしに来るのだが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の耳には入らないと見えて、暫くすると、またいい寝息で寝込んでしまいました。
この時分、捨小舟とは程遠からぬ川原の蘆葦茅草《ろいぼうそう》の中の、先達《せんだっ》てイヤなおばさんの屍体を焼いた焼跡あたりから、一つのお化けが現われました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の出動するのさえ早い時刻だから、お化けの出動はいっそう早過ぎると見なければならない時間に、お化けがうろうろしている。こんな業の尽きないおばさんの魂魄が、焼いても焼ききれるはずはないから、その焼跡にまだうろうろしていることも一応は不思議ではないが、ここに出現したのは、あの脂身《あぶらみ》たっぷりなイヤなおばさんの幽霊としては、あんまりしみったれで、景気のないこと夥《おびただ》しい。それは自分の焼かれた焼跡をしきりにせせくって、舐《な》めたり乾かしたり、何ぞ落ちこぼれでもありはしないかと、地見《じみ》商売のような未練たっぷりのケチケチしたお化けぶりです。
いっそ、こんなしみったれな真似をしないで、思い切って娑婆気《しゃばっけ》を漂わせ、幸い、最も手近なるところにがんりき[#「がんりき」に傍点]というあつらえ向きの野郎がいるのだから、そこらへ一番持ちかけて行ってみたらどんなものだろう――イヤなおばさんのこってりした据膳《すえぜん》を、がんりき[#「がんりき」に傍点]の奴がどうあしらうか、これは浅公なんぞよりはたしかに役者が上だから、おばさんとしても多少の歯ごたえはあるだろう……たぶんその辺の当りがなければと、あらかじめイヤなおばさんはイヤなおばさんとして、相当のおめかしもしなければならない。いいかげん水びたしにされたり、焼かれたりしたずうたい[#「ずうたい」に傍点]を、なんぼなんでも、このまんまで色男の前へ出されもすまいじゃないか――そこでおばさんは焼跡の土をせせくって、何やら相当の身じまいにうきみをやつしているものだろうか。
ところが、蘆葦茅草の中の一方がガサガサとザワついて、そこから、そろそろと忍びよる一つの物がある。
幽霊もまた友を呼ぶのだろうと見ていると、その蘆葦茅草の中がザワついたと見る瞬間、身じまいをしていたはずのイヤ
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