っているのです。
「ねえ、弁信さん、世間の学者たちは、世の中がこんなに悪くなったのは、それは江戸の幕府の方が堕落してしまっているからだと申します。その堕落しきっている幕府の力を倒して、本当の天朝様の御代にすれば、この世の空気もすっかり立て直り、人間もみんな正直にかえるのだ、そうしてその堕落した江戸の幕府というものも、どちらにしても長い寿命ではないから、そのうちに天朝様の世になって、世界が明るくなると――今はその夜明け前だとこう申す人もございますが、それが本当なのでしょうか」
「さあ――そのことも、わたくしにはよくわかりませんが、政治向が変ったからとて、人心はそうたやすく変りますまい。人心が変らない以上は、いくら制度を改めたところで、どうにもなりますまい。慾にありて禅を行ずるは知見の力なりと、古哲も仰せになりました」
弁信の返事は、お雪ちゃんのピントに合っていないようでしたが、さて、お雪ちゃんは、ちょっとその後を受けつぐべき言葉を見出し得ませんでした。
二十五
「それはそうと弁信さん、あなたはこれから、わたしを捨てて、何の用があって、どこへ行くつもりですか」
「さあ……」
お雪ちゃんに改めてたずねられて、弁信法師が返事に当惑しました。
「さあ、そう改まってたずねられると私は困るのです、白骨にいてどうも動かねばならぬ気分に追われて動いて来ましたが、ここでわたくしの頭が、わたくしの足を止める気にならないのが、不思議なのです」
「わたしに逢いに来てくれたんではないのですね」
「いや、やっぱりあなたに逢いたい一心で、命がけで白骨まで来たのですから、ここで逢いたいに違いないのですが、どうもわたくしの足が、この地にわたくしをとめてくれないので、どうにもなりません」
「どうしたのでしょう、わたしは、弁信さんが二人あるように思われてなりません、今ここにいる弁信さんは、弁信さんに違いないけれど、わたしの弁信さんは、まだほかにあるような気がしてなりません」
「そう言えば、わたくしもお雪ちゃんが二人あるように思われてなりません、ここにいるお雪ちゃんも、わたくしの尋ねて来たお雪ちゃんに相違ないけれども、まだ別に一人のお雪ちゃんがなければならないし、わたくしはそれを尋ね当てなければ、本当のお雪ちゃんに逢っているのではないというように思われてならないのです」
「ほんとうに、二人とも、おかしい気持ですね、まさか夢じゃないでしょうね。夢であろうはずはありませんが、二人ともに、逢えると思う人に逢っていながら、逢えないでいるのですね」
「そうです、わたくしは、もう一つ本当のお雪ちゃんを探すために、前途を急がねばならぬような気持に迫られているのです」
「どうも、おかしいですね。そうして、どこへ行ったら本当のわたしが見出せると思いますの」
「その見当はつきませんが、わたくしのこの足は、南の方へ、南の方へとこの飛騨の国を走れと教えているようです。飛騨を南へ走れば、美濃の国ですね――美濃の関ヶ原へ向けて、何はともあれ、急いでみたいという気分に駆《か》られておるのです」
「美濃の国の関ヶ原――」
「ええ」
「関ヶ原といえば、古戦場じゃありませんか」
「そうです――その美濃の国、関ヶ原という名が、今のわたくしの頭の中にピンと来ているのは、そこへ行けばなにものかの捉《つか》まえどころがあるという暗示――ではないかと、私の経験が教えますから」
「それだけなのですか、その関ヶ原とやらに、あなたの知っているお寺だとか、昔のお友達だとかいうようなものがあるのですか」
「そんなものは一向、心当りはございません、ただわたくしのこの頭が、関ヶ原、関ヶ原と何か知らず私語《ささや》いて、見えない指さしが行先を指図してくれているんですね」
「なら、弁信さん、わたしもその関ヶ原へ行くわ」
「え」
「わたしも、その関ヶ原へ連れて行って下さい」
「でも、あなたは、わたくしのように身軽には歩けません」
「歩きます――このままでもかまいません、弁信さんと一緒ならば」
「困りました」
「何を困ることがありますか。では弁信さんは、わたしを振捨てる気でそんなことを言うのでしょう」
「そうではないのです、そうではないけれど、このままあなたを連れ出すということが、すんなり行くかどうかを考えさせられずにはおられません」
「ようござんす、弁信さんがわたしを連れて関ヶ原へ行かなければ、わたしはわたしでひとりで行きますから」
「では、やむを得ません、あなたと一緒に関ヶ原へ参りましょう」
「ああ嬉しい」
「わたくしはここに待っておりますから、おうちへ帰ってお仕度をしていらっしゃい」
「それはいけません、弁信さん」
「どうしてですか」
「わたしがあそこへ帰れば、わたしはきっと引きとめられてしまいます、決
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