こんなところは早く通り過ぎた方がよいと考えて、今までよりは急ぎ足に弁信の先に立ちました。
しかし、その捨小舟の近間を通り過ぎたかと思うと、また以前よりも増した緩々たる足どりで、弁信に話しかけながら、悠々《ゆうゆう》として堤上を歩いて行くのです。
二十四
お雪ちゃんが、弁信に向ってまたこういうことを言いました――
「弁信さん、わたしはこのごろになって、つくづくと人間は慾だと思いました、親兄弟だとか、親類だとか言いますけれど、詰るところみんな慾ですね」
「どんなものですかね」
「あの、イヤなおばさんだって、家に財産があったからああなったのです。その後の騒動が、この高山の町を焼き払ってしまうまでになったのも、元はといえばみんな慾じゃありませんか。親が子を可愛がるのも慾、友達が助け合うというのも慾、みんな真実の皮をかぶった慾で、世の中に本当の思案だとか、親切だとかいうものは無いものじゃないかしらと、わたしはつくづくこのごろ、それを考えますよ」
「さあ、どんなものでしょうか」
「慾を離れて人間というものは無いのです。それを考えると、わたしはたまらないほど情けなくなりました、すべて人間は、物が無いほどしあわせなことはないのじゃないかしら、と考えるようになりました」
「なるほど」
「ですから、人間は、自分のものとしては何も持たないで、その日その日に食べるだけのことをして、それからできるだけ自分の好きなことをして、それでいけなくなったら、楽に自分の手で自分を死なしてしまうのが、いちばん賢い生き方じゃないかと思ってみたりすることなんぞもありますのよ。自分ひとりで死ねなければ、自分のいちばん好きな相手と一緒に死を選ぶのが、いちばん賢い生き方ではないか、生きているということは、そんなに幸福なことでも、価値のあることでもない、と思ったりすることもありますのよ……」
「お雪ちゃんとしては、珍しい心の持ち方ですね。わたくしも、生きているということが、そんなに幸福なこととは思いませんが、それでも、強《し》いて死のうという気にもなりません。生を貪《むさぼ》るのはよくありませんが、それよりも、死を急ぐのはよろしくありません」
「ああ、人間はほんとうに、みんな慾のかたまりではありますまいか。恩だの、義理だの、人情だのと言いますけれど、自分の取分をほかにして何が残りましょう。恋というようなものも、慾の変形といったようなものです。弁信さんのように、神様仏様の信仰も、やっぱり根本を洗ってみると慾から来ているのじゃないか知ら、なんて疑ってくると、わたしは浅ましくてなりません」
「…………」
「慾ですよ、慾を離れたところに人間はありません。わたしは、慾を離れて人間界の別の天地といったようなところへ落着きさえすれば、それが白山の上であろうとも、畜生谷の底であろうとも、どこへでも行ってみるつもりでしたけれども、いま考え直してみると、どんな山奥へ行ったからとて、どんな谷底へ下ったからとて、慾のない世の中は無いのじゃないかしらと、つくづく悟りました」
「なるほど」
「そうして、まあこうして人間がすべて慾のかたまりで、親も、兄弟も、親類もなく、結局、持っているものを奪い合うという浅ましい世の中が、どうなって行くものでしょうかねえ」
「左様……」
「人間が、あんまり慾一方で浅ましいものですから、それだから山が裂けて、この世が一体に火になってしまうのじゃないかと言う人もあります。なかにはこんな浅ましい餓鬼のような人間は、一度、大掃除をしてしまった方がいいなんて言う人もあります」
「見ようによっては、そうも見られないではありませんね」
「人という人が、恩を忘れ、慾のために人を売るようになってしまっては、全く神様や仏様が、人間に水だのお米だのを与えて、生かして置くことがおいやになるのも無理はありませんね」
「なるほど」
「まあ、お聞きなさい、弁信さん、また山鳴りの音が轟々《ごうごう》と高くなってきました。あなたの眼には見えますまいけれども、どうです、実に怖ろしい唐傘《からかさ》のような雲が湧き上ったことを、これこんなに灰が降って来ました」
こう言ってお雪ちゃんは、東の空に濛々《もうもう》と立ちのぼる車蓋《しゃがい》の如き雲を眺めながら、弁信の法衣《ころも》の袖にかかるヨナを、しきりに払い除けてやっていました。
今日の弁信は、おとなしいもので、いちいちお雪ちゃんの言うことに受身になって、それに異議を挟むこともなければ、その意見を訂正したり、訓戒したりすることの絶えてないのが変っています。
つまりお雪ちゃんの人生観が、珍しいほどの変り方を示して、生存の否定と、死の讃美に近いところまで行っているのを知りながら、それに異見を加えない弁信の態度が、変っているといえば変
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