由来、道庵と折助とは反《そり》が合わないものの型になっている。雲助を礼讃する一面が、自然、折助の弾劾となるのは免れ難い因縁かも知れない! 自然、雲助を引立てるために折助のアラを数え立てることを、道庵先生はちっとも遠慮をしていない。
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折助は暗いところで
まあちゃんと戯れ
夜鷹《よたか》を買い
緡《さし》を折り
鼻を落し
小またを掬《すく》い
狎《な》れ合い
時としては
デモ倉となり
時としては
プロ亀となり
まった、風の吹廻しでは
ファッショイとなり
国侍となり
景気のいい方へ
出たとこ勝負で渡りをつけ
お手先となり、お提灯持《ちょうちんもち》となり
悪刷《あくずり》を売り
世を毒し、人を毒する
要するに下卑た、下等な
安直な人間の屑は折助だ
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 道庵の見るところでは、折助はかくの如く下等なものだが、わが親愛なる雲ちゃんに至っては、決してそんなものじゃない。
 銅脈もかつて、雲助の出所の賤《いや》しからざることを歌って、
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雲助是何者、更非雲助児、尋昔元歴々……
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と言っている通り、この素姓《すじょう》が賤しくねえから、貧乏はしても、折助あたりとは品格が違わあ。
 およそ、当代の下劣なる流行と、野卑と煽動と冒涜《ぼうとく》とは、ほとんどすべてが折助の手によって為されぬというのは無いけれど、雲助に至っては、いったい何を悪いことをしましたか?
 調べてごらんなさい、道中筋の悪漢の代表でもあるかのように見られているわが雲助が、今までに何を悪いことをしている。彼等は天真な自然児であると共に、善良なる労働者である。彼等あるが故に、箱根八里も馬で越せる。越すに越されぬ大井川も鼻唄で越せる。荷拵《にごしら》えをさせては堅実無比であり、駕籠《かご》の肩を担いでは、お関所の門限を融通するの頓智もある。雲助唄を歌わせれば、見かけによらず、行く雲を止めるの妙音を発する者さえある。強《し》いて、彼等が為す悪いこととして見るべきものがありとすれば、それは酒料《さかて》をゆするくらいのものだろう。だが、その酒料をゆするにしてからが、無法なゆすり方は決してしない、こいつはゆするべき筋があると睨《にら》んだ時に限るのである。それも、その際、旅人が自覚して、相当に財布の紐をゆるめさえすれば、彼等は難なく妥協し
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