水戸様に率いられて来る!
 それからまた一方、西の方から来るのは単に長州の毛利だけではない、備州[#「備州」は底本では「尾州」]も来る、雲州も来る、因州も、芸州広島も来る。薩州の鹿児島までが、後詰として乗込んで来る。それが関ヶ原で再度の天下を争うのだ!
 そういうふうにまで変化してくると、いささか釣合いは取れてきたわけだが、それにしても、一方の毛利はよいとしても、東軍の総大将が水戸様はおかしいじゃないか。
 尾州とか、紀州とかいうことならば、長州征伐のむし返しが関ヶ原で行われるという理窟にはなるが、水戸徳川は、むしろ長州はじめ勤王党のお師匠格である。
 しかしながら流言蜚語《りゅうげんひご》は、認識や弁証の過不足については、なんらの責任を持たないのを常とする。
 こういう空気の中を米友が垂井の宿を抜けきる時分に、宿を覆うた不安の雲が、哄笑《こうしょう》の爆発で吹き飛ばされてしまったというのは、流言蜚語の正体の底がすっかり割れてしまったからです。
 それは、この街道筋の東西の雲助という雲助が、明日という日に関ヶ原で総寄合を行うということの訛伝《かでん》でありました。
 雲助には国持大名が多い――彼等は長州と呼び、武州と呼び、因州と呼び、野州、相州と呼ぶことを誰人の前でも憚《はばか》りとしてはいない。国持大名の二十や三十の頭を揃える分には、彼等の社会に於ては朝飯前の仕事である。
 つまり、明日の何時《なんどき》かに、斯様《かよう》の意味に於ての国持大名たちが、関ヶ原に勢揃いをして、しゃん、しゃん、しゃんとやろうという、その訛伝が、こんなことに伝えられたものと見える。
 そういう空気のうちに、米友は関ヶ原の駅へ乗込もうとして、その間の野上《のがみ》というのを通りかかったものです。
 そこにかなりの混乱を見ました。
 とある店前《みせさき》に篝《かがり》を焚いて、その前で多数の雲助が「馬方|蕎麦《そば》」の大盤振舞にありついているところです。
 女中たちが総出で給仕をしてやっているが、その奥の屋台に控えて、
「さあ、みんな、遠慮せずに食いな、うんと食いな、ここは桃配りといってな、家康公が桃を配ったところだ。ナニ、桃じゃ無《ね》え、家康公のは柿だと――どっちでもいいやな、今夜は蕎麦配りの山だ、うんと食いな。お代り、お代り、あちらの方でもお代りとおっしゃる、こちらの方でも……お
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