原というのは、これからどっちの方へ、何里ぐらいあるんだね」
「この街道筋を西へ向って行けば、二つ目の丁場がそれだとさ、この次が垂井《たるい》というので、それまで二里半、垂井の次が関ヶ原で一里半ということだから、まだ四里からあるにはあるんだがね――馬に乗っておいでよ」
 今、草鞋を取ろうとする時に、これから四里も歩かせられるとしたら、米友といえどもうんざりしないわけにはゆくまいが、馬をおごってくれるという親方の好意で、帳消しにならないということはない。だが、米友の気性として、
「なあに、四里ぐれえの道は馬でなくたっていいよ」
と頑張ってみました。事実、米友は従来の旅で、ここと思って突っ放され、夜道も野宿も覚えがあるのだから、その気になれば四里ぐらいの追加はなんでもないし、また馬に乗せてもらうなんぞは、自分の分として贅沢《ぜいたく》過ぎるようにも、意気地がなさ過ぎるようにも感ぜられないではない。そこをお角は透かさず、
「なあに、そんなにみえ[#「みえ」に傍点]を張らなくてもいいよ、そら、馬が頼んであるんだからね、あれがそうなんだよ――いいからお乗り。あのう、姉さん、お弁当が出来たら急いでこの人に渡して下さい」
 お角さんは、門の中へ引き込んで来る一頭の駄賃馬の合図と、後ろの方、台所の方面へ向って女中へ弁当の催促を一度にしました。
 女中は竹の皮包の握飯に、梅干かなにかを添えて持って来たものです。
 さすがに万端抜かりがない、だしぬけに人を頼むには頼むようにする、こういうところだけは親方は感心なものだ。
 米友は、お弁当を貰って腰につけ、そうして勧められるままに駄賃馬に乗せられてしまいました。お伝馬《てんま》で旅をするなんて洒落《しゃれ》たことは、これが初めてでしょう。まして行先は、名にし負う美濃の国、不破《ふわ》の郡《こおり》、関ヶ原――

         十五

 こうして米友は、美濃、尾張から伊勢路へつづく平野の中を、南宮山をまともに見、養老、胆吹《いぶき》の山つづきを左右に見て、垂井の駅へ入りました。垂井の宿へ入ると、そこで流言蜚語《りゅうげんひご》を聞きました。不安の時代には、流言蜚語はつきものであります。健全なる時代には、よし流言蜚語を放つ者があっても、それが忽《たちま》ち健全化されて、はねかえしてしまうけれども、不安の時代には普通の世間話までが流言蜚語の翼
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