したのは、渡りに舟というか、迎えに駒というか、ともかくも与えられたる天の助けであらねばならぬ。
 それを頭に閃《ひら》めかした米友の心持は機敏なものでしたけれど、かく俊敏に感得したが最後――そこに所有権の観念が圧倒されてしまって、人の物、我が物という差別観がくらまされてしまったのは是非もありません。
 少なくとも、こういう際だから、自分としては天の助けに反いてはならぬ。ただ先方として、それを諒とするか、しないか、その辺のことまでは、米友の悪くない頭も働く余裕がなかったというのは、この場合ではまた是非がなかったと言えば言えます。猛然として馬の前へ立ち塞がった米友は、
「この馬を少しの間、貸してくんな、おいらの先生が……の場合なんだから」
 もうこの時には、馬子の手綱をふんだくって鞍の前輪へ手をかけて、ひらりと身軽く飛び乗ろうとする瞬間でした。
 これが普通の馬子であったならば、この只ならぬ小冠者の気合に呑まれて、茫然として米友の為すままに任せて、天の助けの使命を全うさせたかも知れませんが、不幸にしてこの馬子が、軽井沢の裸松と甲乙を争うようなしれ者[#「しれ者」に傍点]であって、また同時に、この辺の草相撲では後れを取ったことのない甚目寺《じもくじ》の音公でしたから、たまりません。
「何でえ、何でえ、どうしやがるんでえ、馬泥棒の河童野郎!」
 有無《うむ》を言わさず米友を引きおろしにかかったのは、馬子としては当然の態度です。
「後生だから――おいらの先生が、今かどわかしにひっかかって、あっちへ――あっちへ担がれて行ったんだ、九死一生の場合だ、だから貸してくんな、ちょっとの間だから、貸してやってくんねえな、頼むよ、おじさん」
 米友のこの哀求は、このままで受入れられるべくもありません。
「ふざけやがるない、こん畜生、馬に乗りたけりゃ、助郷《すけごう》の駄賃馬あ銭《ぜに》ゅう出して頼みな、こりゃ人を乗せる馬じゃねえんだ」
「そんなことを言わねえで」
「この野郎、餓鬼のくせに、馬泥棒をかせぎやがる、いけ太え畜生だ」
「おじさん、場合が場合だから、ね、貸してくんな、決して悪いようにゃしねえから、頼むから、後生だから」
「河童野郎、手前の方は場合が場合か知れねえが、おれの知ったことじゃねえ」
「わからねえおじさんだな、人助けになるんだからいいじゃねえか」
「ふざけるなよ、馬泥棒、手
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