、
「ちぇッ――聞きわけのねえ餓鬼だなあ」
全く今の場合は、熊と組打ちなんぞをしている場合ではないのです。師と頼み、主とかしずいて来たその先生が、苟《いやしく》も、「友様! 後生だから助けてくれ!」と、意地も我慢も打捨てて、S・O・Sを揚げている時に、熊なんぞを相手にしていらるべきはずではないのですが、いま言う通り、この場合はまさに、前門熊をふせいで、後門先生を救わねばならない苦境にいる。
ようやくのことで小猛獣を取って抑えて、檻車の中へブチ込んで、さて当の主師の方を見やれば、雲助霞助の砂煙を巻いて行く後ろ影は早や小さい。
「ちぇッ」
米友は舌打ちをして地団駄を踏みました。無論、杖槍はもう小腋《こわき》にかい込んでいるのですが、この遥《はる》か隔たった雲助霞助を見ると、幾度も地団駄を踏み、歯噛みをしないわけにはゆきません。
猛烈にはせ出したことははせ出したけれども、さて、自分の足では、これをどうすることもできないという自覚が、米友の心を暗く、胸をむしゃくしゃさせました。
というのは、腕に於ては相当に覚えがあり、胸に於ては焦《あせ》り切っているが、足に自信が無いのです。本来、自分の足は生れもつかぬ片輪になっている。片輪にされたところで、まかり間違えば両足そろった奴にも後《おく》れはとらないつもりだが、先方は走るのが商売の雲助ではあり、そうでなくても彼と我との距離があり過ぎる、ハンディキャップがあり過ぎる。自分の力の及ぶべきところと、及ぶべからざるところと、見境のないほどの頭の悪くない米友が、走りながら歯噛みをするのも全く無理はありません。ところが、天なる哉《かな》、この場に当って忠勇なる米友のために、偶然に助け舟――とかりに信ぜらるるところのものが米友の眼前に現われました。
九
それは、枇杷島《びわじま》の青物市場へ青物をつけて行った一頭の馬が、馬子に曳《ひ》かれて、帰りの空荷の身軽さに蹄《ひづめ》を勇ませて、パッタリと横道から米友の眼前に現われたものです。
それを見ると、馬鹿でない米友の頭が咄嗟《とっさ》に働きました。
そうだ、この場合、おいらの足では、おいらでなくても普通以上の人間の足でも、あの先生の急に赴くことはできないことだ。
これを拝借するに限る――この四足の力を借りるに限る。この時、この際、自分の眼前に駒の蹄が躍り出
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