し、芸妓の福松がなにくわぬ面《かお》で格子をガラリとあけ、
「まあ、数馬様でいらっしゃいましたか、こんなに遅く、どうあそばしたのでございます」
「実は……」
 兵馬が閾《しきい》を跨《また》がないで何をか言わんとするのを、芸妓は、
「まあまあよろしいじゃございませんか、わたしのところだって鬼ばっかりはおりません、少しお上りあそばせよ」
「いや、ここでよろしい、ちょっと耳を貸してもらいたいのだ」
「まあ、そうおっしゃらずに、少し……」
「いや、ここがよろしい、ちょっと聞いてもらいたいことがある」
 何か内証話があるらしいそぶり。福松は引寄せられて、
「何でございますか」
「あの……」
 兵馬も面を突き出して福松の耳に口をつけようとすると、紛《ぷん》として白粉の匂いが鼻を打ちました。
「あ、よろしうございますとも、それはよう心得ておりますから、そういうことがあり次第、何を差置いてもあなた様にお知らせを致します」
 兵馬の囁《ささや》きを、芸妓の福松は委細諒承してしまっての返事がこれです。
「では、頼みます」
「まあ、よろしうございます、もうこんなに遅いのですから、お泊りあそばしていらっしゃいましな。あら、わたしのところじゃおいや……」
「そうしてはおられません」
 兵馬はこう言って、御神燈の下を辞してしまいました。
 うつらうつらと、宮川の岸を歩きつつある兵馬の心頭に残っているのが、あの脂粉《しふん》の匂いです。目先にちらついているのは、御神燈の光へ横面《よこがお》を突き出して、兵馬の方へ耳を寄せたあの頬っぺたの肉づきと、それから島田の乱れたのです。
 兵馬は、なんだかうなされるような気になりました。吉原で魂を躍動させたような血が、どうやら巡り来って自分を圧えつけるような気持がしただけではありません、「泊っておいでなさいましな、あら、わたしのところじゃおいや……」と言ったのが、なんだか耳の底に残っていてならぬ。
 泊って行けと言われたなら、泊って来たらよかったじゃないか――そんなにも兵馬は考えました。
 だが、宿所にはお雪ちゃんが待っている。待っていないまでも、用向以外に人の家へ寝泊りして来るいわれはない。泊って行けと言ったのも[#「言ったのも」は底本では「行ったのも」]、「あら、わたしのところじゃ、おいやなの……」と言ったのも、先方の単純なお世辞で、こちらがそれに甘ん
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