っているのです。
「ねえ、弁信さん、世間の学者たちは、世の中がこんなに悪くなったのは、それは江戸の幕府の方が堕落してしまっているからだと申します。その堕落しきっている幕府の力を倒して、本当の天朝様の御代にすれば、この世の空気もすっかり立て直り、人間もみんな正直にかえるのだ、そうしてその堕落した江戸の幕府というものも、どちらにしても長い寿命ではないから、そのうちに天朝様の世になって、世界が明るくなると――今はその夜明け前だとこう申す人もございますが、それが本当なのでしょうか」
「さあ――そのことも、わたくしにはよくわかりませんが、政治向が変ったからとて、人心はそうたやすく変りますまい。人心が変らない以上は、いくら制度を改めたところで、どうにもなりますまい。慾にありて禅を行ずるは知見の力なりと、古哲も仰せになりました」
 弁信の返事は、お雪ちゃんのピントに合っていないようでしたが、さて、お雪ちゃんは、ちょっとその後を受けつぐべき言葉を見出し得ませんでした。

         二十五

「それはそうと弁信さん、あなたはこれから、わたしを捨てて、何の用があって、どこへ行くつもりですか」
「さあ……」
 お雪ちゃんに改めてたずねられて、弁信法師が返事に当惑しました。
「さあ、そう改まってたずねられると私は困るのです、白骨にいてどうも動かねばならぬ気分に追われて動いて来ましたが、ここでわたくしの頭が、わたくしの足を止める気にならないのが、不思議なのです」
「わたしに逢いに来てくれたんではないのですね」
「いや、やっぱりあなたに逢いたい一心で、命がけで白骨まで来たのですから、ここで逢いたいに違いないのですが、どうもわたくしの足が、この地にわたくしをとめてくれないので、どうにもなりません」
「どうしたのでしょう、わたしは、弁信さんが二人あるように思われてなりません、今ここにいる弁信さんは、弁信さんに違いないけれど、わたしの弁信さんは、まだほかにあるような気がしてなりません」
「そう言えば、わたくしもお雪ちゃんが二人あるように思われてなりません、ここにいるお雪ちゃんも、わたくしの尋ねて来たお雪ちゃんに相違ないけれども、まだ別に一人のお雪ちゃんがなければならないし、わたくしはそれを尋ね当てなければ、本当のお雪ちゃんに逢っているのではないというように思われてならないのです」
「ほんとう
前へ 次へ
全220ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング