めきなんですよ――何万匹何千万匹! まああの数は……
驚くことはないよ、あれが八億四千の陰虫《いんちゅう》というものだよ。
まあ、八億四千!
そうだよ、女というものの五体の中には、すべてみんな、あの陰虫が巣を喰っている!
おばさんのは、それが外へ頭を出しただけなんだ。
その時、天井の節穴から、あわただしく走《は》せ戻って来たピグミー、
「おばさん、おばさん」
「何だえ」
「飛騨の高山へ行ってまいりましたがね、着物は持ってこられませんでしたよ」
「そうかい」
「わざわざ行って、手ぶらで帰るなんぞは子供の使のようで面目もございませんが、あの着物は、ちゃんとお雪ちゃんが着込んでしまってますから、手をつけるわけにいきませんでした」
「だから、そうしてお置きと言ったんだ。そうしてなにかい、お雪ちゃんは無事かえ」
「無事にゃ、無事ですけれどね……」
「あの眼の悪いお客さんはどうだい」
「元気で、夜遊びまでしていますぜ。何しろ、壺の底のような白骨とちがって、高山へ出ると、ずっと天地が広いですからね」
「そうかい、二人は仲がいいかい」
「いいか、悪いか、そんなことは知りませんがね、お雪ちゃんの身の上に一大事が起りそうなのを、ちゃんと見届けて来ましたぜ」
「何だね、いまさら一大事とは」
「ほかじゃございませんが、お雪ちゃんに悪い虫が附きました」
「悪い虫、悪いにもいいにも、離れられない人だから世話はないさ、遠い上野原というところから介抱して、この白骨まで、心中立てを見せに来た人だから、言うがものはないさ、あれでいいんだろうさ」
「そのことじゃございません、そんなことなら、憚《はばか》りながらピグミーの方が、おととい先にこの節穴から委細を御存じなんだ。こんど高山へ出て、別にまた悪い虫が一つお雪ちゃんに取っついたのか、取っつきかけたのかしているから危ないものだと、それを言ったのさ」
「へえ、高山に、お雪ちゃんを食おうなんていう悪い虫がいたかえ」
「そりゃ、高山の土地っ子じゃありませんがね、よそからの風来者なんですがね」
「若い人かい、年寄かい」
「そうですね、まあ、若いといった分でしょうよ」
「それじゃ、あの宇津木兵馬という前髪だろう」
「違いますよ」
「仏頂寺弥助かい」
「違いますよ」
「じゃ、このごろ来た新お代官の胡見沢《くるみざわ》とかいうのが悪性《あくしょう》で、女と見たら手を出さずには置かないという話だから、そんなのに見込まれでもしたのかい」
「それも違います」
「高山に、あの子を口説《くど》いてみようなんて気の利《き》いたのは、いないはずだがねえ」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]の百ですよ」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]の百?」
「そうですよ、あのやくざ野郎ですよ」
「そんな人をわたしは知らないが、なにかい、この夏、白骨にいたのかい」
「いや、そいつはまだ、白骨なんぞへ来たことはございませんが、何かの拍子で、名古屋方面から高山へ舞い込んだんですね」
「いい男かい」
「イヤに粋《いき》がった、やくざ野郎の小悪党ですがね、どうした拍子か、焼け出されて隠れていたお雪ちゃんを見つけちゃったんだね、そうして、やつ、一生懸命でお雪ちゃんを物にしようとして覘《ねら》っているんです」
「お雪ちゃんだって、なかなかしっかり者だよ、やくざ野郎のおっちょこちょいなんぞに、そう手もなくものにされてたまるものかね」
「ところがね、その百の野郎ときた日にゃ、しつっこいことこの上なし、いったん目をつけると、腕の一本や二本なくなすことは平気でかかる奴なんだからね、ずいぶんあぶないものなんですぜ」
「ちぇッ、いやな奴だねえ」
「おばさんなら、あんな奴を手もなくこなしちゃうでしょうが、お雪ちゃんが、あんなのにひっかかっちゃたまらない」
「お前、何とかして追払ってやるわけにはいかないかえ」
「そりゃ、わたしが天井裏かなんかに潜《ひそ》んでいりゃ、まさかの用心にはなるかも知れませんがね、わたしも実ぁ、お雪ちゃんの傍にいるのが怖いんです」
「どうして」
「だって、それ、相州伝の長いやつを持った人が、お雪ちゃんの傍には附いていますからね、へたに間違うと、またいつかのように二つになって、やもり[#「やもり」に傍点]のようにあの壁へヘバリつかなけりゃなりません」
「そんな人がいるんだから、がんりき[#「がんりき」に傍点]とやらが覘ったところで、お雪ちゃんの身の上も心配なしじゃないか」
「そう言えばそうですがね、がんりき[#「がんりき」に傍点]という奴はそれを覚悟で、お雪ちゃんをねらっているらしいです、つまり、相州伝で二つにされるか、但しはお雪ちゃんをもの[#「もの」に傍点]にするか、二つに一つの度胸を据えてかかっているらしいから、それで心配なんです」
「困ったねえ」
「おばさんも、お雪ちゃんという子は嫌いじゃないんでしょう、ずいぶん可愛がっておやりのようでしたし、お雪ちゃんの方でもまた、イヤなおばさん、必ずしもイヤなおばさんでなく、そのうちに愛すべき人間性のあることを認めていたようですから、おばさんにとっても得易《えやす》からぬ知己でしたね」
「生意気なことをお言いでないよ。だが、そう聞いてみれば、わたしもみすみす、そんなやくざ野郎の手にあの子を渡したくない」
「では、高山へ参りますか」
「行きましょうよ、お前も一緒に行っておくれだろうね」
「行きますともさ、僕だって意地でさあ、がんりき[#「がんりき」に傍点]のやくざ野郎に、お雪ちゃんなんぞを取られてたまるものか。あの野郎のことだから、手に入れるとさんざん見せびらかした上、年《ねん》いっぱいに叩き売るにきまっていますから、そう話がきまれば善は急げ、一刻も早く行ってやりましょう」
「そうしようよ」
釣台が、その時、以前の通り、担《かつ》ぐものもないのに、ふわりと動き出して、裸体で、無表情で、そうして魂のうめきを続けているところの肉体を載せたことは前の如く、すーっとこの場を流動してしまいます。
口をあいてそれを見送っていたピグミーは、存外あせらず、例の角行燈《かくあんどん》の前に小さい膝をドカリと組んで、油差の油をゴクリと飲み、小憎らしい落着きを弁信の方に見せ、
「どうです、弁信さん、これでもまだ起きられませんか。あのイヤなおばさんさえ、お雪ちゃんのためにじっとしていられないと言って、飛騨の高山へ向けて先発しましたぜ、それに何ぞや、弁信さんともあろうものが、まだ悠々とお休みですか。それも御無理ではございません、弁信さんは疲れていらっしゃる――まあ、ごゆっくりとお休みなさい、僕はこれから、イヤなおばさんのあとを慕って、お雪ちゃんのいる、飛騨の高山まで急ぎます……」
八
その翌日のお正午《ひる》少し前、池田良斎は、俳諧師《はいかいし》の柳水と共に浴槽の中につかっておりました。
「外は雪で埋もれた山また山の中も、こうして湯気の中に天井から明るい日の光を受けていますと、極楽世界ですな、それにつけても、北原さん――の一行はこの雪の中を御苦労さまです」
柳水が言うと、良斎は、
「なあに、外へ出れば出たでまた気がかわりますからね、血気壮んな者にはかえって愉快でしょう、まあ、天気がよくって仕合せですね」
「でも、飛騨の高山はかなりの道ですから、途中御無事でありますように」
「平湯まで出る途中、多少難所があるけれど、吹雪《ふぶき》にでもならなければ心配は要りませんよ――」
「それにしても、ところがところですから、雪見に転ぶところまでというわけにも参りません、この深山険路の山で転んでしまったらおしまいですね」
「風流も程度問題ですよ。だが、こうして、どこを雪が降るといった気分で、温泉につかっていると天上天下の太平楽です、一句浮びませんか」
「さよう――」
「古人の句で、こういった気分を詠んだ、面白いのはありませんか」
「さよう――」
俳諧師柳水は、仔細らしく頭をひねって、
「あらたのし冬まつ窓の釜の音――というのはどうです、鬼貫《おにつら》の句ですがね」
「なるほど、温泉ということは言ってないが、冬日の温か味は出ていますね」
「我がために日《ひ》麗《うらら》なり冬の空――これは翁《おきな》の句ですが、空気の温か味はありますが、水の温か味はうたってありません。おもしろし雪にやならん冬の雨――」
「やはり、あらたのしというのが、この場の気分には合っているようです」
「和歌の方ではどうでしょう、こういったような気分と情味を現わしたものがございましょうか」
「これは和歌のものじゃありませんね、やっぱり、山の宿の温泉というようなものは俳諧のものですよ」
「一茶の句に、我が家はまるめた雪のうしろかな――というのが一茶らしくって、いかにも面白いが、拙者はこのうしろかなを、後ろ側としたら、いっそう実感的で面白いと思うんでがすよ」
「そうか知らんな」
「蕪村のは一句一句がみんな絵になっていますが――宿かせと刀投げ出す吹雪かな――なぞは実景ですね、ことにこの白骨の冬籠《ふゆごも》りの宿を預っているわれわれにしてみると、絵でもあり、実感でもあります、ついこの間の仏頂寺なにがしと名乗るさむらいなんぞは、まさにそれでしたね」
「なるほど――どうも気紛れなものでしてな、こんな山奥の冬籠りへ、まさかと思っていると、入りかわり立ちかわり相応の客が来るのが不思議ですよ。これが平常通り十一月で釘を打ってしまえば、狐狸もおかすまいが、人が籠っていると、また期せずして人が集まって来るものです。知ると知らざるとに拘らず、人間の住むところには人気が立てこめて、おのずから人の心を惹《ひ》くようになっているのかも知れません――予期せざる人の出入りを調べてみても、一人、二人、三人――ちょっと胸算用《むなざんよう》に余るところがありますね」
「面白いです。それが、あなた方をはじめ、みんな相当に一風流のある人だけが集まって来るような気配も面白いではありませんか。尤《もっと》も、一風流でもなかった日には、雪の山坂を分けて、これまで来られるはずはございますまいが……」
こんなことを良斎と柳水とが語り合っている時に、浴室の戸がガタリとあいて、
「お早うございます」
「いや、これは宗舟画伯」
と、二人が新来の裸虫《はだかむし》を歓迎しました、見ればこれは絵師の宗舟でした。
「両先生お揃いで……」
「いや、いい心持で今、歌と俳諧とを論じていたところです」
「どこを雪が降ると温泉にぬくもりながら、詩歌を論ずるなんぞは風流の至りです」
「それを今も言っていたところですよ」
「どうです、宗舟先生、この温泉気分は絵になりませんかな」
「ならないどころですか――絶好の画材ですよ」
「南画ですか」
「いや、南画とも違いますね」
「では、呉春張りの四条風にでも写しますかね」
「あれより、もう一層、軽いところがいいですね」
「では近代の鳥羽絵」
「ああなっても少しふざけ過ぎます、まあ、夜半亭と大雅堂の合《あい》の子といったようなところで、軽く刷いてみておりますがね」
「おやおや、もう制作におかかりですか」
「もう最初からとりかかっておりますよ、白骨絵巻といったようなものを目論《もくろ》んでおりましてな、この宿の冬籠りの皆さんを中心に、白骨の内外を取りまぜて、一巻の絵巻物にしつらえようと、実はひそかに下絵に取りかかっておりました」
「それはそれは、お手廻しの早いことで……さだめて結構な土産物が出来ましょう」
「只今、暇を見ては下図調べにかかっておりますが、いよいよ本図にかかりましたら、良斎先生にひとつ序文を願って、柳水宗匠に跋句《ばっく》を書いていただき、それから皆さん方に一筆ずつ賛をのせていただきたいと、こう思っております」
「ははあ、それは至極好記念でございますが、また一方から申しますと、宗舟画伯きわめてお人が悪い、さだめて我々が行住坐臥《ぎょうじゅうざが》のだらしのないところを、いちいち実写にとどめて、後世にまで抜き差しのならないことにたくんでお置きなさる、我
前へ
次へ
全44ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング