となしい。
夜になると、与八独特の彫刻をする。寺男としては二人前も三人前もらくに働き、彫刻師としては、稚拙極まる菩薩を素材の中から湧出せしめて、欣求《ごんぐ》の志を顕《あら》わす。
かくて菩薩像の一躯が成れる後、それを和尚に献じてはや出立の暇乞《いとまご》い。
和尚も志に任せて強《し》いては留めず、
「与八、お前に餞別をやる」
と言って、合掌の印を結ぶことを与八に教えました。
合掌の印といっても、別段、慢心和尚独特の結び方があるわけではなし、自分の手を胸で合わせて見せて、物を拝むにはこう拝むものだとして見せただけのもの。
与八はそれを見て、有難い拝み方だと思いました。拝むのに有難くない拝み方というものもあるまいが、あの和尚様のように、ああすると、形そのものからまた別に有難味が湧いて来る、わしもああして拝むべえ……与八は、和尚の合掌を真似《まね》てみせると、
「おお、それでよしよし、これがわしからお前への餞別じゃ。道中、いかなる難儀があろうとも、その合掌一つで切り払え。およそいかなる賊であろうとも、その合掌で退治られぬ賊というものはない、いかなる魔であろうとも、その合掌で切り払えない魔というものはあるものではない。一寸なりとも刃物を持つな、一指たりとも力を現わすなよ、われと我が胸へ合わするこの合掌が、十方世界縦横|無礙《むげ》、天下太平海陸安穏の護符だよ」
与八はそれを、なるほどと信じました。
それから和尚は、更に老婆心を尽して言うことには、
「これから先、どこへ行こうとも、縁あるところがすなわちお前の道場じゃ。わしは指図をするわけではないが、お前、気があったら、これから有野村の藤原というお屋敷へ行ってみろ。そこでは先日、家が焼けて、再建の普請の最中だから、お前のその力で働いてやれば、本当の建直しができようというものだ、行ってみる気があるなら行ってみろ」
こう言われて、与八はそれこそ、また時に取っての縁――ともあれ、その有野村の藤原家というのへ踏出しの縁を置いてみようという気になって、ここを出立しました。
その道中――といっても五里から十里までの道、同じ甲斐《かい》の国中の有野村のことですけれど、与八としては、ここまでは知己をたよるということもあったけれど、これから先は何も無い――本当の見知らぬ旅の気持になりました。
二十五
無心で通り過した甲府の城下――その昔、ここで、自分たちに縁を引いたそれぞれの人たちが、腥風血雨《せいふうけつう》をくぐり歩いた昔話も、与八は一切知らぬが仏――こんな山国の中に、またたいそう賑やかなところがあったもの。郁太郎のためにおもちゃと菓子とを買い与え、自分は茶屋へ寄って弁当で腹をこしらえて、いざ出立。無心で来て無心で過ぎてしまった甲府の城下。
やがて釜無の川原――弁信法師が曾無一善《ぞうむいちぜん》の身に、また※[#「しんにゅう」、第4水準2−89−74]《しんにゅう》をかけられたところ。琵琶が虐殺されて、肝脳を吐いていたところ。与八のためには遮るものも、脅《おびやか》すものもなにも無い。竜王川原を越ゆれば有野村。
村へ入ると、もう問わでもしるき藤原家の大普請。木遣《きやり》の声、建前の音ではや一村が沸いている。
慢心和尚の紹介は地頭の手形よりも有効で、与八は直ちにこの工事の手伝役にありつく。
与八の体格の肥大であることと、子持ちの労働夫ということが、工事仲間の眼を惹《ひ》いたけれども、それも束《つか》の間《ま》、やがて与八は、この多数の工事人夫の間に没入してしまう、没入して現われないほどによく働いたが、どうしてもまた浮び上らなければならない。それは、第一によく働くこと、第二には総てに親切なこと――珍しい稼ぎ人が来たものだという評判が、それからそれと伝わって、彼の現われるところ、おのずから薫風《くんぷう》の生ずる有様を如何《いかん》ともすることができませんでした。
ある日、この工事が、本邸の雨滴《あまだれ》の境に据えるところの磐石《ばんじゃく》の選定に苦しみました。
石は多いけれども、大きくして、そうして雨滴の下に用うる風雅と実用とを兼ねた石が、かねて寄せられたもののうちに急に見つからなかったために、石探しの一隊が組織されました。
一隊の者が、ここへ据える石を、この近所から物色して来るために派遣されるようになって、与八もその一隊の中へ加えられることになったのです。
といっても境外へ出る必要はなく、この広大な屋敷のうちを物色することによって、適当のものが見つかるべきはずである。この一隊が、お正午《ひる》休みを利用してその目的のために、ブラブラと出かけるには出かけたが、さて探すとなれば、やっぱり有るようで無いもの、大きさにおいて適当と見れば形に於て整わず、形において面白いと見れば容積が足らず、あれか、これかと評議しながら一行がゆくりなくもやって来たのは、悪女塚の下です。
この悪女塚を築いた当の暴君は、ただいま旅行中であること申すまでもないが、与八としては、その施主《せしゅ》が旅行中であったにしても、ないにしてもやむを得ないが、同行の一隊の者が全く素人《しろうと》であったことが悲しいことでした。ここに来合わせた者が、悪女塚の悪女塚たる因縁を全く知らない者ばかりでした。
そうでしょう、お銀様のいる時には、気持を悪がってこんなところへ近づく者はないくらいですから、施主がいなくなってみれば顧みる人すらない。あの当座、知っている者だけが知っていて、知らないものはてんで知らなかったのですから、ここへ来合わせた者がすべて偶然のような工合で、「妙なもの」があることを、この時はじめて発見せしめられた者のみでした。
そこで一同は、この異様なグロテスクを怪訝《けげん》な面《かお》をして右見左見《とみこうみ》していたが、本来の目的はこのグロテスクを眺むることではなく、単純に雨滴石《あまだれいし》を求めんがためでありました。ところが、偶然にも、このグロテスクの下に於て、ほぼ理想に近い石を発見し得たことです。
あの土台の下になった蓮華《れんげ》のような形をした一枚石――あれがいかにも、おれたちの求めるものにふさわしいものではないか、あれを持って行けば棟梁にもほめられる、大旦那の御機嫌にも叶うに相違ない、あれが適当だ――という目利《めき》きだけは、すべての者が一致したようです。
ところで、繰返して言うようだが、このなかに、悪女塚の悪女塚たる所以《ゆえん》を、ほんの露ほどでも知っていた者があるならば、口を抑えて手を振ったことでしょうが、いずれも知らぬが仏でした。
塚にさしひびかないように取除くならば、あの一枚を引抜いてもよかろうではないか、そのあとへ、別のしかるべきのを見つくろって嵌《は》め込んで置きさえすれば、差支えはなかろうではないか――ということに一同が一致してしまいました。
そこで、手もなくその一枚だけを悪女塚の台下から抜き取るということに意見も一致すれば、手も揃ってしまいました。
まことに景気のいい音頭で、悪女塚の台石一枚を抜き取りにかかったのは是非もないことです。
だが、無雑作《むぞうさ》に抜き取れるだろうと思ったそれは、存外、念入りの工事のために、なかなか思うように外《はず》せないことを発見しました。それがために、よほど周囲を掘りひろげ、隣石と隣石との間をこじあけなければならないことを覚りました。しかし、本来、幅も行き[#「行き」に傍点]も知れた石だから、結局は努力の問題だけだという見とおしで、かなり無理をしてこじたけれども、石の食い合せにドコか執念深いところがあると見えて、ようやく困難を感じて、一同暫く息を入れないことには、一気にはやれないことを覚ったものです。
郁太郎を背負ってこの一行に加わっていた与八は、離れてその掘返しを見ていたのです。
それは、自分が手を出すまでのことはなかろうと思うし、また郁太郎も背中にあることだし、第一それに与八は、心して力を出すまいと念じていることがあるのです。それは慢心和尚に戒《いまし》められたからというわけではないが、自分の馬鹿力を出すことは、徒《いたず》らに人の驚異と好奇を惹《ひ》くのみで、その結果のよくなかったということを自覚せしめられていることが多いから、道中では人並みの仕事をし、力を出さねばならぬ時には、人に隠れた場所に限るというような戒めを持っていたから、それで、強《し》いて手出しをしなかったのですが、ここでみんながもてあまし出したのを見ると、気の毒になりました。
なるほど、見たところでは、さほど苦しまずに抜き出せそうであるが、中の食い合せがしぶといに違いない、無理はいけないな、と思っているうちに、やっぱり無理をしたがります。無理引きをしたり、無理押しをしたりしているうちに、周囲にわたっての土台が非常に痛んでゆくことを見ないわけにはゆきません。それに、こんなことでは、この石一枚を外すのに半日かかるかも知れない。これでは、せっかく棟梁に賞《ほ》められようと思ってした仕事が、叱られる様子になるのもかわいそうだ。
そこで与八は、ついつい手を出してやる気になりました。
「わしがひとっきりやってみますから、皆さん退《ど》いていてごらんなさい」
一同は、思わず手を明けて与八を見ると、無雑作に寄って来た与八は、郁太郎を背負ったままで、軽く両手をその一枚石にかけたものです。その時に、右の一枚石が与八の手にかかって、ほとんど篩《ふるい》を廻すような軽みで左右に揺れ出したのには、一同が舌を捲かずにはおられませんでした。
腕に覚えのある屈強なのが十人近くもかかってこじれなかったのを、あの無雑作な動かし方はどうだ。ここへ来て与八の力量の一端が認められたのは、この時が初めてでありましたけれども、不幸にして、それは、徒らに驚異と喝采だけで納まる場合ではありませんでした。
こうして、与八の手で無雑作に、三つ四つ左右に揺られた石は、もはや抜き取れたと同様の位置になり、それが抽斗《ひきだし》を抜くように抜き出される瞬間に、グッグッと周囲が鳴り出したのは、最初の事情から見れば、あながち無理とは言えなかったのです。
最初の石の食合せ方が執拗であったところで、それをコジるために、かなり無理をしているところへ、予想外の大力で一度にガタリと埒《らち》があいたものですから、周囲の土石も一層、狼狽《ろうばい》の度が強かったに違いありません。
与八も飛び退きました、立って舌を捲いていた連中も一時に飛び退きましたから、幸いに人間は怪我をしませんでしたけれども、その石の四方の腰がグタグタに砕けると、塚の頭に立たせ給うグロテスクが、すさまじい権幕で、もんどり打って下へ落ちころがってしまったのです。
この場合、人間に怪我のなかったことが何よりとして、一同はホッと息をつきながら崩壊の箇所へ戻って来て見ると、塚の上からまっさかさまに落ちたグロテスクは、与八の手によって抜き出された一枚石の角へ頭の頂天をぶっつけたと見え、その脳天の中央へ一つの穴があいたままで、仰向けにひっくり返されている形相《ぎょうそう》、知らぬ者でも一時は身の毛がよだつほどでしたが、
「まあ、それでもよかった、人間の代りにこれ見ろ、生塚《しょうづか》の婆様が脳天へ怪我をして身代りに立っておくんなさった、まあよかった!」
口々にこう言って胸を撫で下ろしたけれども、何がまあよかった! のだ。
まあよかったの言葉が、この塚の施主から出たならば、それこそ本当にまあよかったのだが! その施主なるものは旅中で不在とはいえ、やがて戻って来なければならない運命の人なのだ。
この人の築いた悪女塚をひっくり返しておいて、まあよかったとホザく百姓ばらを、それで許して置く人であるか、ないか――そのことを知り、その場合を想像した者が、このなかに一人もいなかったことが、幸か不幸かそれは分らないが、知っている者が一人でもいたならば、この態《てい》を見て色を失い、為さん術《すべ》を忘
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