の奥州の石巻とやらまで走《は》せ参じてもよろしうござります。
その辺は一切、御心配なく、どうか一刻も早くこの場を御避難下さるように。
七兵衛のいうところに理があるのみならず、こうして立ち話をしている間にも、寄手の人数が続々と増して来るのは明らかで、今までなるべく暗くしていたのが、爆竹のように焚火をはじめたかと思うと、また轟然たる響、大砲ではない、花火をまたしても打ち込んで、物置の裏あたりへ来て爆発させたもののようです。
同時に、今まで声を立てなかったムクの凄《すさ》まじい吠え声が起りました。その声は、攻めていいのか、守っていいのか、大将の命令を促す吠え声なのです。つまり、群がる寄手の中へ走り込んで戦うべきであるか、或いは主従この場をお立退きならば、不肖ながら拙者がその先導なり、殿《しんがり》なり勤めまする、いずれにしても猶予は禁物――との陣触れを、七兵衛と呼応して促すものにちがいありませんから、駒井も決心しました。
まもなく、七兵衛の献策通り、ムクを先導に、駒井とマドロスとが前後に警衛となって、楽しい晩餐の席の女子供のすべてが、造船所へ向って闇の中を急ぐのを見ました。同時に、番所に踏み止まった七兵衛は、どういう了見《りょうけん》か、今まで暗くしてあった大手の方へ向いた番所の室々へすっかり明りを点けて明るくしてしまい、自分はその部屋部屋を走《は》せ廻《めぐ》って、処分の残るものはないか、大切の品であるべくして置き忘れたものはないか――その辺の検《しら》べをはじめました。
番所の中が一時に明るくなったと見ると、外の寄手は一時、鳴りを沈めていたようでしたが、やがて山の崩れるようなトキの声を一つあげました。
それと共にまた轟然《ごうぜん》たる一発、物置の屋根へ落ちてそこへ火がついたのを窓越しに見た七兵衛――奴等、最初のうちは、奴等のイカサマ大砲と違ったすばらしい洋式の本物がこっちにあって、そいつの仕返しを怖れていたに違いないが、こっちが相手にならないと見て、コケ嚇《おど》しを打ち出したな。
おやおや、この部屋は田山先生のお部屋だな、ほかの部屋部屋は残りなく船の方へ移されているけれども、このお部屋だけはそっくりだ、失礼だが、たいして金目のものは無かりそうだが、お描きになったものがたくさんある、他人には分らないが、御当人にはずいぶん丹念な種本かも知れない、これを暴民共に滅茶滅茶にさせてはお気の毒だ、ひとつ掻《か》き集めてこの袋に入れて、ともかくもお船へ移して置いてあげよう。
外では、大砲ではない花火の筒を横にしたのが、
二発、
三発、
轟々――
台所のあたり、たった今の晩餐の食堂のあたりも急に明るくなった。さあ、からめ手へ火が廻った。
七兵衛も、有合わす麻袋へ田山白雲の作物や画具を手当り次第に投げ込んで、それを荷って、もうこれまでと庭へ躍《おど》り出した時に、
「そうれ、魔物がいた、切支丹のマドロスが、袋を担《かつ》いでそっちへ逃げた」
七兵衛の姿を認めた寄手の叫び声。
「今、袋を背負った魔物が向うへ駈けて行った、早いのなんの、飛ぶように駈けて行った、船の方へ逃げたに違えねえ、それ、造船所へ押しかけろ、船をぶち壊して魔物を生捕れ! 一人も逃がさず、国賊に天誅《てんちゅう》を加えろ!」
口々におめき叫んで、造船所をめがけてなだれかかったのです。
「天誅!」
「切支丹バテレン!」
「国賊、毛唐、マドロス、ウスノロ!」
やがて、造船所の界隈が群集の暴動と焼打ちの的になりましたが、建物と違い、船は動くように出来てありました。
群集の狼藉《ろうぜき》を蒙《こうむ》る以前に、船はゆらりゆらりと船渠《ドック》を出てしまいました。
花火大砲も届かず、悪口雑言も響かぬところに、悠々として辷《すべ》り出してしまった船の形が、闇の波の中に鉄《くろがね》の橋を架けたように浮き進んでいるのを、暴民らは如何《いかん》ともすることができず、手を振り、足を踏んで、徒《いたず》らに叫びわめくのみでありました。
二十三
郁太郎を背負うた与八が、大菩薩峠を越えたのはあれから三日目。峠の上には雪がありました。
ここには自分の建てた地蔵菩薩、その台座のあとさきに植えた撫子《なでしこ》も雪に埋れたのを掻《か》き起して、あたり隈なく箒をあて、持って来た香と花とを手向《たむ》ける。
幼きものを御衣《みころも》の、もすその中に掻き抱き給うなる大慈大悲の御前《おんまえ》、三千世界のいずれのところか菩薩捨身の地ならざるはなし、と教えられながらも、特にこの地点が与八のためには忘れられないものにもなり、立去り難いものにもなるが、何をいうにも六千尺の峠、時は初冬、天候の程も測りがたない、背に負うた幼な児の上を思うても下りを急ぐに如《し》かずと思い直しながら、なお立去り難いこの地点に、地蔵様をうしろにして暫く立って眺むるこし方《かた》の武州路。
ここを下れば、もうその武蔵の国の山は見納めということになるのだ、と思えば尽きせぬ名残《なご》りはあるけれど、見返ることは徒らに、無益の涙を流して愛慾の葛藤を増すばかり。
「さあ、お地蔵様、お大切《だいじ》にござらっしゃれませ――いつまたわしらは帰って来られるか、来られねえか、そのことはわからねえでござんすが、それでも、諸国修行のことが無事に済みました暁は、またここの地点でお目にかかりまする。わしらの故郷といっては、どこがどうだかわからねえでございますから、無事に諸国修行が済みましたら、東西南北を合わせて、わしらはひとつこの峠に草《くさ》の庵《いおり》というようなものを建て、この世の安楽と後生の追善のために、ここでお地蔵様のお守をして一生を暮したいもんだと心がけてはおりますがねえ……」
与八は再び跪《ひざまず》いて、自分のこしらえた地蔵菩薩にお暇乞いを申し上げ、
「南無帰命頂礼《なむきみょうちょうらい》地蔵菩薩――お別れのついでにこの笠をさし上げましょう、峠の上は下界より嵐がひどいことでござりますから、たとえ一晩でもこの笠で雨露《あめつゆ》お凌《しの》ぎ下さいまし」
自分の持って来た菅笠《すげがさ》を、台座に攀《よ》じ上って地蔵菩薩の御頭《おんかしら》の上に捧げ奉る。
姫の井の道、見返りがちなる大菩薩峠の辻――木の間枝のはずれから、いつまでも見えるあの笠。菩薩も笠を傾けて送り給うと見ゆる。
姫の井の道を、左に広やかなかやのを見て歩いて行くとまもなく大菩薩西の峠の萩原の小平。珍しやここにまだ新しい山小屋が一軒、その以前に見かけなかったものだが、猟師か、山番の小屋か、立寄って見ると締め切った入口に札がかけてある。
[#ここから1字下げ]
「長兵衛小屋
大菩薩峠ノ道ヲ通ル旅ノ人、往々魔風ニ苦シメラルルコトアリ、依ツテココニ茅屋ヲ造リ報謝ノ意ヲ表スルモノナリ、貴賤道俗トナク、叩イテ以テ一夜ノ主ナルコトヲ妨ゲズ
年月日
[#地から2字上げ]嶺麓 大藤村有志」
[#ここで字下げ終わり]
さては奇特の人ありけり、これもこれ艱《なや》み多き世路をすくわん菩提心の一つ、暫く御報謝にありつかんと、与八は戸を押してみると、容易《たやす》くあいた。中に入って見ると、素人《しろうと》手づくりの山小屋とはいえ、相当に入念の木口――炉も切ってあれば、鉄瓶、手桶、水注、流し元、食器の類も一通りは取揃えてある。
では、せっかくのことに、今晩はここで一夜を明かさしてもらうべえかな。
峠の上は寒いとはいえ、この固め切った屋内で、この炉の中に夜もすがら火を焚いて置けば、夜具蒲団は無くともけっこう夜を過ごせる、一歩外へ出れば焚物に不足はなし、外へ出るまでもない、炉辺には、もう夥《おびただ》しい薪が、しかも程よく割り揃えて山のように積みこまれているではないか。
おお、この戸棚をあけて見ると、薄いながらも夜具が一組、やあ、こちらには米も、塩も、醤油までが使い残されている。
与八は、この小屋を建てて、普《あまね》く道行の人に施さんとする有志の功徳の親切なることを、世にも有難く思い、行き暮れた旅人が、これによって、どのくらい救われたかの記念を、さまざまの壁書に見ました。
それは、まだ新しい板張りの壁に、ほとんど隙間のないくらいに楽書が書かれてある。かなりの長い文句を書いたのもある、歌や、発句のたぐいを書いたのもある、単に何月何日同行何人と、その名前だけを記しているのもある。
与八は浅からぬ興味をもって、その長短錯落した楽書を、次から次へと読んで行きましたが、ここは相当に教養のある人も通ると見え、与八の学問では読み抜き難い文字も多いけれども、あとを辿《たど》って見ると、
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「われら二人、やみ難き悩みより峠を越えて江戸へ落ち行きます、江戸で一生懸命働いて、皆様に御恩返しをするつもりでございます。
月日
[#地から2字上げ]あやめ
[#地から1字上げ]大吉」
[#ここで字下げ終わり]
と書いたのは戯れとは思われない。この文面で見ると、女の筆で現わされている。してみれば、若い夫婦か、恋人同士が、家庭の折合いつかず、やみ難き悩みのうちに相携えて江戸へ走るために、国を去るの恨みをとどめた心持がわかると共に、この若女房と思われる人の才気のほども思われないではない。
[#ここから2字下げ]
菩薩未成道時 以菩提為煩悩
菩薩既成道時 以煩悩為菩提
[#ここで字下げ終わり]
と達筆で認《したた》めたのは与八の学問には余る。
[#ここから2字下げ]
蓮の花少し曲るも浮世|哉《かな》
[#ここで字下げ終わり]
と、古句か近句か知らないのを認めっぱなしで年月もところも入れてない。
[#ここから2字下げ]
失恋ノ悩ミニ堪ヘ兼ネテ今月今日此ノ処ニ来レリ
[#ここで字下げ終わり]
と、若い男の筆で書いてある。
[#ここから2字下げ]
来てみればさほどでもなし大菩薩
[#ここで字下げ終わり]
とぶっつけたのもある。
[#ここから2字下げ]
我慢大天狗
邪慢大天狗
打倒大天狗
[#ここで字下げ終わり]
と走らせたのもある。
[#ここから2字下げ]
借金スルノハツライモノ
鍋釜マデモミンナ取ラレテ
スツテンテン
[#ここで字下げ終わり]
と、途方もない自暴《やけ》を飛ばしたのもある。そうかと見れば、また一方にやさしい女文字、
[#ここから1字下げ]
「三寸の筆に本来の数寄を尽して人に尊まれ、身にきらを飾り、上も無き職業かなと思ひし愚さよ――我も昔は思はざりしこのあさましき文学者、家に帰りし時は、餅も共に来《きた》りぬ、酒も来りぬ、醤油も一樽来りぬ、払ひは出来たり、和風家の内に吹くことさてもはかなき――」
[#ここで字下げ終わり]
何の意味とも知れないが、その筆つき優にやさしく、前の大吉、あやめの二人名の女文字になんとなく通うものがありとすればありと見られ、その筆のあとに血が滲《にじ》んでいると見れば見られてたまらない。
転じて、西に向いた方を見ると、
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「最モ美シイ芸術ホド、自分ノ最モ悪イコトヲ自覚シテヰル人間ノ作ニ成ルモノデアル」
[#ここで字下げ終わり]
と焼筆で走らせたものもある。その次には、
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大魚上化為竜 上不得獣額流血水為舟
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これも与八にはちんぷんかん。
更に一方の上壇、白檀張《びゃくだんば》りの床の間とも見える板の表には、
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平等大慧音声法門
八風之中大須弥山
五濁之世大明法炬
[#ここで字下げ終わり]
いともおごそかに筆が揮《ふる》われているのを見る。
二十四
かくて、七里村恵林寺へ着いた与八。折よく慢心和尚は在庵で、与八を見て悦ぶこと一方《ひとかた》ならず、ここにまた当分の足を留める与八。
昼は、与八は寺男のする寺の内外の雑役の一切を手伝った上に、寺所有の山へも、畑へも行く。随所に郁太郎を連れて行って、しかるべきところへひとり遊びをさせて置くが、郁太郎は極めてお
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