。後にこの事あらはれ、市尹《しゐん》の庁によび出され、人のせぬことをするはなぐさみといへども一罪なりとて、両翼をとりあげその住巷を追放せられて、他の巷《ちまた》にうつしかへられける。一時の笑柄《わらひぐさ》のみなりしかど、珍しきことなればしるす、寛政の前のことなり」
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とある。これを仮りに寛政のはじめ(西暦一七八九年)と見れば、道庵現在の時より約八十年の昔のことで、西洋ではじめてグライダーを作った独逸人《ドイツじん》オットー・リリエンタールの発明が一八八九年とすれば、それは日本の明治二十二年に当るから、これより先、徳川十一代の将軍|家斉《いえなり》の寛政のはじめ、一七八九年に、すでに日本の岡山にグライダーを作って成功した人があったという事実は、驚異すべきものに相違ない。日本の鎖国の泰平が、斯様《かよう》に、無名の科学的天才も圧殺してしまった例は他にも少なくないと考えられる。
岡山の幸吉の事績によって、津田生は、金助や、弓張月や、夢想兵衛のロマンスと違った、科学的技術者が日本に厳存していたことを知ると共に、苦心惨憺して、すでに没収され、湮滅《いんめつ》せられた幸
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