て、渡頭と、そうして海を眺める――
海の彼方《かなた》は伊勢の国、波の末にかすかにかかる朝熊《あさま》ヶ岳《だけ》。
十
東海道を上るほどの人で、「伊勢の国」に有終の関係を持たぬ者は極めて少数である。
道中は、委細道中気分で我を忘れてふざけきっていた旅人が、七里の渡しに来て、はじめて本来のエルサレム「伊勢の国」を感得する。但しこのエルサレムは、巡礼者の心をして厳粛清冷なる神気を感ぜしむる先に、華やかにして豊かなる伊勢情調が、人を魅殺心酔せしめることを常とする。そうして七里の渡しの岸頭から、伊勢の国をながむる人の心は、間《あい》の山《やま》の賑やかな駅路と、古市《ふるいち》の明るい燈《ともし》に躍るのである。
神を尊敬する日本人には、神を楽しむという裏面がある。清麗にして快活を好む日本人は、大神の存するところを、厳粛にして深刻なる修道の根原地としたがらないで、その祭りの庭を賑やかにし、その風情に遊興の色を加えることを忘れない。伊勢へ行くということは、日本人にとっては罪の懺悔に行くのでもない、道の修練に行くのでもない、一種の包容ゆたかなる遊楽の気分を持って行く
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