んじん》の断崖の一方から、今しこの湖水をめがけて、ざんぶと飛び込んだ者があります。
 申すまでもなくそれは女で、あざやかな帯と着物だけが空中に舞い、肉体は血の池深く落ち込んで、漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《さざなみ》をただよわせると見れば、竜之助の夢もそれで破れました。
 すべてが消えて、人里で鶏の啼《な》く音がする、と思うと、竜之助は自分の唇に焼けつくような熱を感じ、夢に見たすべては消えたのに、血の池に浮ぶ生温かいお供餅が、海月《くらげ》のようになってこの室に迷い込み、臼《うす》の如く我を圧迫するのを感じ、
「人間が多過ぎるのだ」
 いくら殺しても、斬って捨てても、あとからあとから生きうごめいて来る人間に対する憎悪心が、潮のようにこみ上げて来るのを押えることができません。

         六十一

 駒井甚三郎の無名丸《むめいまる》が今、北緯――度、東経――度あたりの海を北へ向って走っている。
 日本内地の地点からいえば、それは鹿島洋《かしまなだ》を去る遠からず、近からぬところあたりであろうと思われるが、この船の上では、陸地はいずれの眼界にも見られない。見渡す
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