は倒れた壺を引起しながら、こう言うと、弁信が、
「全く水は貴いものでございます、人は食物が無くても一カ月余りも死なないでおりますが、三十六時間、水がなければ、斃《たお》れてしまいます」
「その通り――惜しいことをした、この水……」
「いいえ」
 一方がしきりに惜しがるを、一方は事もなげにしている。
「ああ、この水のあとが青くなった」
 竜之助は眼をすまして地上を見ました。いま銀の壺をひっくり返した水の流れのあとだけが骨灰の間に青くなっている。草だ、その部分だけ草が青々と生えているのだ。
 弁信は池を見ながらこう言いました、
「困ったものでございますね、あちらの谷ではいま申します通り、修羅の巷《ちまた》で人々が無制限に殺し合っているのでございますよ。その争いのもとはよくわかりませんが、なんに致せ、この世に人命ほど貴いものはないのでございます、いかなる大事も、人間の生命に価するほどの大事はなかろうはずでございますのに、ああして千万の人間の生命を犠牲にして、無制限な戦いをしておいでなさる。それからまた、こちらの谷では、道を得さえすれば、霧のように晴れてゆくはずの迷いが悟りきれないで、われと我
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